彩の縦糸

ifバレンタインデー

時は二月中旬、具体的には十日を過ぎた頃だろうか。
長門日吉敷は兄嫁に捕まって、台所に立っていた。
ここに立つのは、久しぶりだ。
静が我が家に住むようになってからは、とんとご無沙汰だったような気もする。
後ろでは兄が、はしゃいでいた。
「吉敷ィ〜、こっち向かんかぁ。可愛いのぅ、エプロンがよう似合っとるわい」
あぁ、うるさい。
エプロンをつけたぐらいで、キャーキャー言われたくないものだ。
兄の隣では、静の友達だと名乗る里見玲於奈も悪乗りして騒いでいる。
「よっしーは何着ても似合うと思うけどォ、どうせならレオナは裸エプロンが見たかったな♪」
どういう発想だ。
少なくとも、十七歳の子供が妄想するようなネタではない。
頭痛に襲われ、頭を抱える吉敷の袖を、横から引っ張ってくる者がいる。
言うまでもない。共に台所へ立っている兄の嫁、静だ。
「ねェねェ、よっしー。この湯煎って何サ?それに買ってきたチョコ、堅くて削れないんだけど。どうすりゃいい?」
何が悲しゅうて二十の男が三十の主婦に、チョコレートの溶かし方を教えねばならないのか。
聞くところによると静、この年になるまで、この手のイベントとは無縁であったという。
大学で兄貴とつきあっていた間も、軽くスルー。
源太が特に欲しがらなかったので、まぁいいやという結論に至っていたらしい。

……不憫すぎるぞ、兄貴……

今あかされる二人の秘密に、吉敷は思わず目頭を押さえた。
で、それがどうして今になって突然、チョコをつくろうと思い立ったのか。
きっかけは源太であった。
「吉敷のチョコが欲しいのぅ。作ってくれんかのぉ?」
などと、嫁もいる前で、すっとぼけたことをぬかしやがったのである。この天然馬鹿兄貴は。
断っておくが、吉敷は源太にチョコをくれてやったことなど今まで一度もない。
そもそも吉敷は貰う側の立場であって、あげる側ではない。
にも関わらずチョコをくれとねだる兄貴を適当にあしらっていたら、静までが騒ぎ出した。
「え〜、ずるーい、あたしも欲しーい!よっしーの手作りチョコが食べたいよぅ」
おかげで吉敷は、バレンタインデーとは何のイベントであるかを二人へ説明する羽目になった。
全てを聞き終え、静と源太は顔を見合わせてアハハと大爆笑した後。
改めて、静が吉敷に向かって申し出たのであった。
今年は、あたしも作ってみたいから、お菓子の作り方を教えてちょうだい――と。

「ね、ほら、力入れてんだけど、ぜんっぜん、削れないんだよ。どぉして?」
ぐいっぐいっ、と包丁をおかしな方に向けて、静がチョコレートを削ろうとしている。
見ている方がハラハラする手つきだ。よく見ると包丁の持ち方自体も、おかしい。
チョコを削る前に、自分の手首を削り落としそうな持ち方だ。
「あぁ、もう!貸してみろ」
兄嫁から包丁を取り上げ、ついでにチョコも取り上げた。
「あんた、鉛筆も削ったことないだろ」
不服そうな静へ、さりげなく嫌味の一つもかましつつ、削り出す。
シャッシャ、と軽快に削られていくチョコを見ているうちに、静の顔は歓喜へと変わってゆく。
「うわー!はやーい!すごーい!うまーいねぇ、よっしー。家庭科の成績、良かったでしょォ」
家庭科の授業なんて、女子にしかないだろうが。
ホントに、この主婦は女なのか?
いや、家庭科の授業を、ちゃんと受けていた女子なのか?
などと心の中で悪態をつきつつ、吉敷は用意してあったバターを火にかける。
教えるというよりも、ほとんどの作業を一人でやっている状態だった。

料理教室は、エプロンをつけるところから始まった。
タンスから白と黒のエプロンを取り出し、白い方を静に渡してやる。
「エプロンかぁ」
何故か彼女は不服顔で、理由を問うと「エプロンより割烹着がいいなぁ」などと言いだすもんだから。
「じゃあ、あんたが作ればいいだろうが」
そう言ってやると、兄嫁はぺろりと舌を出して宣った。
「えへへぇ。裁縫苦手なんだぁ……よっしーが作ってくれると嬉しいんだけど。ダメ?」
炊事はダメ、裁縫もダメ。得意なものなんて、あるのか?
花嫁修業では何をやっていたんだろう。
いや、静のことだから、花嫁修業など何もやっていないのかもしれない。
そこまで考えた時点で、吉敷は彼女に教えるのを全放棄した。
習うより慣れろ。言葉で覚えるのではなく、見て覚えろ。そう言って、始めたのである。

手持ちぶたさに、ぼ〜っと突っ立っている兄嫁へ指示を出す。
「静、あんたは卵を割って――あぁ、いや、いい。卵は俺が割る」
鷲づかみに卵を持ち、勢いよく蛇口へ叩きつけようとしていた彼女を止めた。
なんてことだ。今時の小学生でも、卵の割り方ぐらいは知っていように。
大婆様のところの三孫も料理の腕は酷いものだったが、静に比べれば、ずっとマシだろう。
エヘヘ、と反省の色なく笑う彼女へ、ふるいと粉の入った袋を手渡す。
「秤の使い方は覚えてるよな?さっき説明した通りに量って、ふるいで奮ってくれ」
「うん、それは大丈夫。任せてよ!」
意味もなくガッツポーズされ、吉敷のテンションは、ますます下がってゆく。
秤で分量を見るぐらい、それこそ子供でも出来る。大人が出来ないのは恥ずかしい。
いや恥ずかしい以前の問題で、もう一度小学校で徹底的に、家庭科を学び直すべきだ。

一方、こちらは居間でゴロゴロしているレオナと源太の二人であるが。
「源ちゃん、暇だねぇ〜」
「おぅ、暇じゃのぉ」
レオナは畳の上にゴロ寝しながら、新聞を読んでいる。
赤の他人の家だというのに、全くお構いなしな行儀の悪さだ。
源太はそれを窘めるでもなく、同じく畳でゴロ寝していた。
「よっしーってさ、昔っから、ああなの?」
ちらりと台所へ目を向け、レオナが問う。鼻毛を抜きながら、源太が問い返す。
「ああって、何がアーなんじゃ?」
「お料理の達人だったのかってコト」
ふ、と鼻毛を吹き飛ばし、源太は何となく外を見た。
良い天気だ。空っ風が吹き荒れているから、表には出たくないが。
「達人って程でもないわな。吉敷も俺も、ガキん頃から自炊しとったからのぉ」
「そっか。両親、いないんだっけね」
長門日兄弟には両親がいない。源太が十八の頃、二人とも死んでしまった。
「まぁな。やらんと飢え死にするってんで仕方なく覚えたようなもんじゃ」
「ふぅ〜ん。でも、お菓子は作らなくても飢え死にしないよ?」
さりげなく鋭い突っ込みが入る。源太は天井を仰ぎ、からからと笑った。
「ふッは、確かにな!まぁ吉敷の菓子作り趣味は、半分以上、俺のせいだろうよ」
すぐにピンときて、レオナは意地悪く突っ込んでみる。
「お菓子作ってって、ねだったんでしょ。昔っから駄々っ子だったんだなぁ〜、源ちゃんは」
「そうは言うがな」
むくり、と起き上がり、あぐらをかく。
「ああ見えて、吉敷は手先が器用なんだ。うちにある料理の本全てを十歳でマスターしよった」
「よっしーって、見るからに器用そうだもんね。お裁縫も得意そう」
ちらと台所を覗くと、吉敷が小麦粉だか片栗粉だかを、ふるいにかけて奮闘していた。
静はボールの中の卵をかき混ぜているようだ。大丈夫だろうか。
かき混ぜ終えるまでに、中身が残っていると良いのだが……
「そうそう、あのエプロンも吉敷が繕ったもんでの。白は俺用、黒は自分用だと」
嬉々として話す源太を少々呆れた目で捉えながら、レオナは相づちを打つ。
「へーぇ。親の形見じゃないんだ、あれ」
「静が来る前までは、毎日の食事も吉敷が作っとったんじゃ。うまかったのぅ〜」
まだまだ続きそうな弟自慢を遮って、レオナは言ってやった。
「妹だったら、もっと嬉しかった?」
「あ?」
呆ける源太へ、もう一度繰り返して尋ねる。
「だから。よっしーが妹だったら、もっと嬉しかったんじゃない?」
途端に、怒鳴られた。
「アホかィ!吉敷はな、弟だからこそエェんじゃッ」
今度はレオナが呆ける番で、呆けている間にも源太の弟自慢は続く。
「見ろ!あの尻を」
いきなり尻かい。
だが指さされ、思わずレオナも目線を、そちらへ向ける。
「普段はジーパンの中でコンパクトに収まっておるが、肉付きが最高でのォ。こう、ガチッとしていながらスベスベもしており、頬ずりしたくなるほどの美尻!」
――と言われてもジーパンの上からでは、ガチもスベスベも何も判ったもんじゃない。
「続いて、あの胸板!」
「胸板って言うほど、厚くないよね?よっしーのは」
兄の源太と比べると吉敷は別に、がっしりしているわけじゃない。
普通の人と同じか、或いは背が高い分、すらりとした印象を受ける。
まぁ源太の岩のような体躯と比べられたら、誰だって華奢に見えるかもしれないが。
「ふっ……薄くもなく、厚すぎくもなく!そこが良いンじゃい。それにな」
声のトーンを落とし、レオナの耳元でぼそりと呟く。
「吉敷のスポットはチクビとケツの穴だ」
いきなりエロ単語を囁かれ、レオナの頬は真っ赤に染まる。
普段は変態なギャグを飛ばしたとしても、そこはやっぱり思春期真っ盛りであるからして。
「うぇっ!?なんで知ってるの?兄だから知ってる、なんてのはナシだよ」
「ぬぅ、やるな……レオナよ」
本気で、兄だから、とでも答えるつもりだったのか、源太は唸った。
「なにが『やるな』、なんだか……」
ふぅ、と溜息をついた時、吉敷と静の二人が、こちらへ来るのに気づく。
「あれ?もう完成したの?」
「するわけないだろ、馬鹿」
エプロンを外した吉敷が畳へ腰を下ろす。静は、あぐらをかく夫の隣へ座り込んだ。
「オーブンで焼いてるんだ。あと三十分ぐらいで出来上がる」
どことなく達成感というか満足感を浮かべている吉敷と比べて、静は落ち込んでいる。
きっと、台所では義弟に怒鳴られっぱなしだったのだろう。少し気の毒だ。
「ずるいよ〜。よっしー、全部自分で作っちゃってサァ。あたしが作る予定だったのに!」
かと思えば、そうではない。
吉敷が全部やってしまったのを拗ねていただけのようだ。
「悪いな。あんたに任せていたら、明日になっても終わらなさそうだったから」
対して吉敷は謝罪するでもなく、ぶっきらぼうに言い捨て、居間を出ていった。
「何処行くんじゃあー!」
騒ぐ兄へは、「トイレ」と言い残して。

「よっしーって、基本的にはイイ子なんだけど」
彼より、ずっと年下のレオナが言う。
「時々ああいう悪い子になる時が、あるよね?」
「うむ。まぁ、しかし、あれが吉敷の持ち味であり。かわゆいところでもあるんじゃ」
兄が、こんな調子で怒らないから、弟は益々調子に乗るのではなかろうか。
レオナはそう思ったが、くちには出して言わないことにした。
「でも、むっとこない?今だって、しずさんを馬鹿にしてったんだよ?」
「へ?馬鹿にされたんだ、あたし」
馬鹿にされた当人が首を傾げている。ダメだ、こりゃあ。
天然夫婦が同意してくれない事にも内心腹を立てながら、レオナは憤然とする。
「レオナには、無理だよ。笑って許してあげるなんて出来ないよ、よっしーのこと」
「じゃあ、あんたはどうしたいってのさ?よっしーを虐めてみる?」
逆に虐め返されそうだけどね、と言って、静は肩をすくめる。
だが彼女の案に、レオナは顔を輝かせ、勢いよく頷いた。
「うん!いいね、それ。それやろう!」
「本気でぇ〜?」
呆れる静、それから源太にも、もう一度頷いてみせる。
「よっしーがイヤって言い出すぐらい、ベタベタ甘えてやるんだから。だってバレンタインデーって本来は、そういう日だもの」
「そ、そうだったかのぅ……?」
吉敷の説明を思い出そうとする夫婦を言いくるめるように、レオナは力強く断言した。
「そうなの。よっしーより現役乙女のレオナの言うことのほうが、正しいんだよ」

吉敷がトイレから戻ってくるまでには、三人の悪巧みは完了していた。
その内容とは――

トイレの方角を厳しく見つめながら、レオナは腰に手をあて男らしく言い切った。
「嫌がらせは全部、源ちゃんがやること」
てっきり彼女が率先してやるものだと思っていた夫婦は声をあげる。
「え?あんたがやるんじゃないの?」
「レオナやしずさんがベタベタしたって、嫌がらせにならないよ」
可愛い女の子や綺麗なお姉さんが相手じゃ却って喜んじゃうよ、と言ってレオナは笑った。
気むずかしい弟の顔を脳裏に浮かべ、源太は首を捻る。
果たして、その理屈は吉敷にも通用するのだろうか、と。彼は大の女嫌いだ。
いや、女嫌いというのは少しニュアンスが違うか。弟は軟派な女性が嫌いなのだ。
「源ちゃんがやれば、ダメージも倍増だと思うし」
それに、この少女。源太のことを一体何だと思っているのだろうか?
静も同じ事を考えたのか、源太の思っていたことを代弁するかのように口を尖らせる。
「ひっどいなぁ、レオナ。源ちゃんのこと、化け物扱いして」
対してレオナは「あはははっ♪」と軽快に笑い、さして悪いとも思っていない顔で謝った。
「ごめん、ごめん」
「それに、よっしーは源ちゃんのこと、嫌いじゃないよ?」
「でも源ちゃんが相手でも、ベタベタされるのは苦手でしょ」
水の流れる音がする。そろそろ吉敷が戻ってくるかもしれない。
「じゃ、レオナは散歩してくるね。しずさんも一緒に行こ?」
「あたしも?」
疑問符で返す静の腕を取り、レオナは玄関へ向かう。
「そう。だって元々源ちゃんが、よっしーに作ってって頼んだんだもんね。それで、よっしーは源ちゃんの為に作ったんだもん。自分一人でね。だからレオナ達には、あれを食べる権利はないの」
そう言われると、そのような気もしてくる。
吉敷は殆ど自分で作ってしまった。静に手伝わせる気など、初めからなかったかのように。
それに作り終えた時の、満足そうな顔。
あれはやっぱり、源太に作ってくれと言われて、気をよくしていたのだろうか。
「……そうだね。じゃ、源ちゃん。あたしらは散歩してくるから、上手くやっといてよ」
源太は珍しくオタオタしながら、二人の後を追いかけてくる。
「お、おい。本気でやれってのか?」
「虐めるとか、深く考えないでいいよ。源ちゃんはいつもの通り、よっしーと向き合えばいいから」
いつもの通り、ベタベタすればいい。
それがレオナのいう『嫌がらせ』になりそうだな、と考えながら、静も玄関を出て行った。

手を拭き拭き、吉敷が戻ってくる。戻って来るなり台所へ直行して、オーブンを覗く。
やがてチン!と音がしたのを見計らい、オーブンの戸を開けた。
「よし、まぁまぁだな」
台所から漂ってくる匂いなどから察するに、作っていたのはクッキーだったようだ。
正確には、チョコクッキー。大きな皿に盛りつけて、居間へ運んでくる。
「ん?あの二人は」
キョロキョロする弟へ、気のないそぶりで源太は答えた。
「散歩に行った」
「なんだよ……食いたいって言ってたくせに」
珍しく、拗ねた顔を見せる。
普段はレオナと静に対し、あまり愛想が良くもないのに。
もしかして、二人にも食べて貰いたかったのであろうか。
自分一人のために作られた物ではないと知り、源太は複雑な気分になった。
そんな兄の複雑な心境を知って知らずか、吉敷は彼の隣に座り込む。
「ま、いいか。ほら、ご待望のチョコレートクッキーが完成だ。さっさと食えよ」
「クッキーか……チョコが欲しかったんじゃがのぅ」
一つ手に取り、ぱくりとくわえる。
焼き菓子の香ばしさと、カカオの香りが口の中に広がった。
「チョコレートクッキーだって言っただろ?一応、チョコも入ってる」
まだくわえたままの源太をチロ見して、ムッとした表情で吉敷は言った。
「そんなに不満なら、無理して食わなくたっていいんだぜ」
「ふぉうひゃふぁいふぁ」
源太はジリッと弟にすり寄り、兄の異様な行動に吉敷はズサッと後退する。
「な、なんだよ?くわえたまんまでしゃべったって何言ってるか判らないだろ」
クッキーを一旦手に持つと、源太は言い直す。
「……そうじゃなくてだな」
「そうじゃなくて?」
「せっかくのバレンタインデーなんじゃし、その、な?」
もう一度くわえ、にじり寄った。
「いっふょにふぁふぇふょー」
「だ、だから!全部しゃべり終えてから食えっての」
何がしたいのか判らない。それだけに、兄が怖くて吉敷は更に後退する。
ドン、と背中が壁に当たった。
音を立てて一枚目を丸呑みすると、源太は二枚目を手に取った。
「うむ。だから、な?二人で半分ずつ、両側から食べようじゃないか」
そんな気色悪い食べ方、なにゆえ実の兄とやらなくてはならないのか。
だが源太はモジモジしながらも、二枚目を口にくわえてスタンバイ。やる気満々のようだ。
つきあってられない、とばかりに吉敷は立ち上がろうとするが――
「ふぁふぁんふぁいっ!」
源太にズボンをガッシリ掴まれ、嫌と言うほど壁に顔面を打ちつけた。

目の中がチカチカする。脳しんとうを起こすかと思うほどの衝撃だった。
「くぅ〜……ッ」
唸っていると、後ろから兄が迫ってくる。口にはクッキーをくわえたまま。
「フォーフォー」
歯で器用にクッキーを持ち上げ、急かしてくる。反対側から食えという合図らしい。
冗談じゃない、誰がそんな真似をするかってんだ。
再び立ち上がろうと壁に手をつく吉敷だが、下半身はしっかり兄にホールドされている。
しかも動いた拍子に、源太の手が吉敷の大事なところをギュッと鷲づかみするもんだから。
「はぅンッ」
情けない悲鳴をあげ、吉敷はズルズルと座り込んでしまった。
バリンと二枚目も飲み込み、源太が尋ねてくる。
「ん?どうしたんじゃ吉敷、可愛い声をあげよって」
などと言いながら、ジーパンの上からモミモミするのも忘れない。確信犯だ。
吉敷は漏れそうになる声を両手で塞いだ。可愛い声などと、何度も言われたくない。
我慢する弟を見て源太のサド心に火でもついたか、さらにモミモミの速度を速めてゆく。
早まる動きに吉敷の鼓動も速まり、身をよじらせ無駄な抵抗を試みる。
「んッ、んッッ……あ、くぅッ」
ついには口から手を離し、がっちり抱きついて離れそうもない兄をグイグイ押しやった。
「や、やめろよ馬鹿兄貴!離せっつーんだ、このォ!」
頭を押しても腹を蹴飛ばしても、すっぽんのように食らいついた源太は離れそうもない。
「フハハハ、なんじゃ吉敷、それで抵抗しとるつもりか?全然効かんぞォ」
ズボンの上から執拗に弟の股間をまさぐる。
布を隔てても傍目に判るほど、吉敷の股間は盛り上がっていた。
「く、クッキー食うんじゃなかったのかよ、今日は!?」
懸命な説得を続ける吉敷だが、股間を襲う外気の冷たさに、びくんッと体を震わせる。
見れば社会の窓が開かれており、中から吉敷の息子がヤァとばかりに顔を出しているではないか。
「おぉっとぉ、クッキーの粉が入ってしまったぞぉー」
ほとんど棒読みで、握りつぶしたクッキーをパラパラと吉敷のチャックの中へ降りかける。
せっかく作ってやったというのに、なんちゅう扱い方をしてくれるのか。
食べ物を粗末にしちゃダメだって、母さんも生前よく言ってたのに……
悔しさやら悲しさやら何やらで涙ぐむ吉敷にはお構いなく、源太は彼の股間へ顔を近づける。
クッキーの欠片まみれになった吉敷のナニを、嬉しそうな顔で眺め回した。
「おぉー。すっかり汚れてしまったのぅ」
欠片まみれになったのは、誰の仕業だと思ってるんだ。わざとらしい。
心の中で悪態をつく吉敷だが、次の兄の行動には必死の形相で抵抗する。
「これは綺麗にしてやらんとなぁ」などと言いながら、源太がマイサンを咥えようとしてきたのだ!
「だぁぁぁッッ!やめッ、やめろ馬鹿!変態ッ!!」
ボカボカと兄の腹を蹴飛ばし、両手で髪を掴んで引っ張った。それこそ何十本も抜いてやる勢いで。
「あだだだだ!!だがッ、この程度でワシを止められると思うなよ、吉敷ッ!」
なんという無駄根性、髪の毛を精一杯引っ張られても源太は止まる気配を見せぬ。
長い舌がベロリ、とナニにくっついたクッキーの欠片を舐め取った。
いや、ナニを舐めるついでに欠片も綺麗に舐め取った。
「…………ッ!」
ぎゅう、と源太の髪を握りしめたまま、吉敷は目を瞑る。
彼の目元の端からこぼれ落ちるものを見つけ、ようやく源太も動きを止めた。

「……すまん」
のっそり身を起こすと、兄は、ぼそっと呟き、明後日の方を向く。
「つい、調子に乗った。吉敷は、こういうの、好きじゃないと判ってるのに、な」
寝転がったまま、吉敷は兄の謝罪を聞き流す。
……くそぅ。
素直に謝りやがって。
源太は、いつもこうだ。こっちが爆発してやろうと思った瞬間、間を外してくる。
兄のこういうところが、気に入らない。
吉敷はゴシゴシ目元を拭って起き上がると、じろりと兄を睨んだ。
「今日ぐらい、普通にしてくれると思ったのにな。なんで、いつもこうなるんだ?」
「すまん」
兄は見事に項垂れている。
すまんと思うぐらいなら、初めからやらなきゃいいのに。
そう問い詰めると、源太は少し照れた調子で白状した。
「実は、今日のこれは全部レオナの差し金でな。その、吉敷を虐めろと指図を受けて」
「ナニィ?」
正気を疑うような言葉に吉敷は目を剥き、兄へ聞き返すと同時に、玄関が開く音も耳にした。
「たっだいま〜!源ちゃん、ちゃんとやっつけといてくれたぁ?」
レオナの声だ。やっつけといた……ってことは、源太の言ってることは真実か!
「それで、つい、魔が差したというか、興味がわいたというか」
「……後で話がある。逃げるんじゃねぇぞ、兄貴ッ」
モジモジ告白を続ける兄の襟首を掴み、鬼の形相で一睨みすると、玄関までレオナを迎えに行った。


そして、その日。
吉敷の説教は、夜半過ぎまで続いたという……

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