彩の縦糸

あの二人の、その後

南樹芳恵が退院した。
医者の話では傷は完治したとの事だが、残る問題は心の傷だろう。
大勢の見知らぬ男達に陵辱されたのだ。彼女は処女だった。
――というのは、後で大婆様から聞かされた情報だ。
見舞いへ行った時には知り得なかった。
知っていたのは大勢の男達に乱暴されて、任務を失敗したとだけ。
俺は彼女について何も知らない。
あの街で受けた性暴行が、まさか初めての男との行為だったとは。
そうと知っていれば、見舞いでの声のかけようも違っていただろうに。
南樹家への道を急ぎながら、十和田九十九は後悔の念に悩まされた。


南樹家は旅館を営んでおり、この辺りでは老舗と呼んでも差し支えない。
一人娘の芳恵は家を出て、霊媒師になった。
嫁いで家を継ぐ選択肢もあったはずだが、彼女は己の霊力を世のため人のために使いたいと考えたらしい。
彼女らしい正義心だ。
九十九が芳恵と知り合ったのは、猶神流の総本山にある道場であった。
同期は、彼女の他に長門日源太もいた。
源太とは、すぐに仲良くなったが、芳恵とは一向に距離が縮まなかった。
お高くとまっている、とでもいうのだろうか。
何事にも大らかな源太とは異なり、彼女の周りには高い壁を感じた。
組み稽古では相手にされず、冗談を言ってもクールに受け流されて、だから、ずっと自分は彼女に嫌われている、百歩譲っても興味を持たれていないんだと思っていた。
――なのに、あの事件が起きた後。
大婆様を始めとして、門下の全員が口を揃えて言うのだ。
南樹芳恵は、ずっとお前が好きだったのだ……と。
そんなわけはない。皆は自分を担ぐつもりなんじゃないかと思う。
そう思いながらも、九十九の足は南樹家へ向かっている。真相を確かめるために。

店先に出ていた芳恵の母を呼び止め、娘さんは家にいるかと尋ねたところ、断られるかと思いきや、あっさり彼女は娘への面会を許し、奥へ声をかける。
「芳恵ー、お客さんよー!猶神流の同門さん!」
遠くで芳恵らしき返事が聞こえ、芳恵の母が振り返った。
「奥へどうぞ」
会釈し、九十九は母屋のほうへ回る。
引き戸を開けて中へ上がり込むと、二階から「こちらです」と彼女の声がした。
誰と名乗っていないのに、よく会う気になったものだ。大婆様が来たとでも思っているのか。
或いは九十九が心配するほどには、心の傷は深くなかったのだろうか?
階段をあがり襖を開けると、立ち上がった芳恵が、あっと小さく叫んだ。
「と、十和田くんだったの?」
「あぁ」と短く頷き、後ろ手に襖を閉める。
向かい合って、九十九は改めて芳恵を眺めた。
今日の彼女は薄い桃地の着物を召している。
実家では、いつも着物なのだろうか。道場では常に軽装、外来服を着ていたようだが。
「お……お見舞い、ありがとう。嬉しかった」
ぽつんと呟いて、芳恵が九十九を見つめ返す。
嬉しいなどと、九十九に向かって彼女が言うのは珍しい。
「退院おめでとう」と切り返しながら、九十九は畳に腰を降ろす。
「復帰は、いつ頃になる?」
本当に聞きたいのは、そんな事ではないのに、くちからは全く別の言葉が出た。
「あ……来月には」
そう答えて、芳恵も少し離れた場所に座り直した。
そのまま彼女は黙ってしまい、気まずい沈黙が訪れる。
元々、九十九はおしゃべりな男ではない。
源太と違って雑談のレパートリーが豊富なわけでもない。
それは芳恵も同じで、間に源太がいたからこそ、両者の会話が成立していたと言える。
しばらく居心地の悪い時間が続いた後、不意に芳恵が口を開く。
「きょ、今日の十和田くんは黒衣じゃないんだね」
「ん?あぁ」
こちらの目を見ないで話す様子が気になりはしたものの、九十九は素直に相づちをうつ。
今日の彼は楔模様の長袖シャツに、焦げ茶の長ズボンといった出で立ちだ。
普段は外来着を愛用している。
着物や黒衣は仕事か行事の際に、着る程度である。
「仕事着以外の格好見るのって初めてかも……」
小さく呟いた芳恵が顔をあげ、わずかに微笑んだ。
「格好いいよ。外来着も似合ってる」
「そりゃあ、どうも」
なんと答えたらよいか判らず、ひとまず九十九も頷いておいた。
頷いた後で、とってつけたように付け加えた。
「南樹は着物なんだな。実家じゃ、いつも着物なのか?」
「う、うん。そうだけど……変、かな?」
言ってもいないのに尋ねられ、九十九はすぐに言い返す。
「変とは一言も言っていないだろう。似合っている、見違えたぐらいだ」
「うわっ、お世辞とか。いいよ、そこまでベタ褒めしなくても」
だんだん芳恵も本調子に戻ってきたので、ついでだからと勢いで聞いた。
「なぁ、南樹。皆が言っていたんだが」
「えっ、何を?」
「お前が俺を好きだって皆が言うんだが、嘘だろ?」
本当か?ではなく嘘だろと聞いてしまったのは、本心からだった。
やはり、どう考えても彼女が自分を好きだとは思えなかったのだ。九十九には。
しかし聞かれた瞬間、芳恵の表情はさっと曇り、再び顔を伏せてしまうものだから、予想外の反応に、慌てて九十九は聞き直した。
「本当、なのか?」
対して彼女の口から漏れたのは怒りの言葉ではなく、湿った調子の「ごめん」であった。
「ごめんって何が」
「私なんかが好きになっちゃって。迷惑だよね」
およそ普段のお高くとまった彼女らしからぬ、弱気な発言だ。
いや、お高くとまっていると思いこんだのは九十九の勘違いだったのかもしれない。
本来の芳恵は、もしかしたら九十九が思うよりもずっと、乙女なのかもしれなかった。
俯いたまま寂し気に、彼女が呟く。
「それに十和田くんにだって彼女の一人や二人ぐらい、いるもんね……」
「いるか!」と思わず怒鳴ってから、九十九はゴホンと激しく咳払いで訂正した。
「いたら、お前と仲良くなりたいなんて誰が思うか」
「え……っ?」
「俺に彼女なんていない。いや、それどころか女友達はお前だけだ、南樹」
ふてくされたように呟く九十九の顔を、芳恵がマジマジと見つめてくる。
「嘘、十和田くんって私の友達にも人気があるんだよ?皆、格好いいって狙ってて」
初耳だ。そんな大勢の女性に言い寄られたことなど、人生において一度もない。
九十九の周りは、いつだって男友達ばかりで溢れていた。
女っ気など、己の母親を除いたら本気で芳恵と大婆様の二人だけだ。
「そんなの口先だけだろ。全員、社交辞令だよ」
口を尖らせる九十九を見て、何を思ったのか芳恵は微笑み、ほんの少し膝を進めた。
「私は、社交辞令じゃないよ」
「なんだよ。社交辞令じゃないって、何が?」
「だから、私があなたを好きだってこと」
笑顔で言われ、九十九は硬直する。
今になって、額からは汗が噴き出してきた。
「退院したら、ずっと言おうと思っていたの」
そんな彼を真顔で見つめ、芳恵が言う。
「十和田九十九くん、結婚を前提に私とおつきあいして下さい……って。駄目、かな?」
両手を取られて逃げ場を失った九十九には、嫌だと断る逃げ道も残されていなかった。
――否。
好きな女に告白されて、逃げるつもりなどハナからない。
「こ……こちらこそ、お願い、する」
頬を紅潮させガチガチに緊張で固まりながら、九十九は、それだけを、やっとの思いで吐き出した。

△上へ