アクア

7.大胡とサザラ

大胡に思わぬ反撃を受けて、サザラはどうしたかというと、ぶるぶると震えていた。
顔は真っ青であった。
面と向かってバケモノと罵倒されたから――?
いや、違う。

僕は……
僕は沙由を
そんな目で見たことは一度もないッ


およそ彼らしくもない取り乱した姿。
恐らくは沙由も初めて聞いただろう。
彼が怒鳴り声をあげるのを。

沙由は人質じゃない!
大切な人だ
家族よりも、仲間よりも大事な人だ
あなたに何が判る!
いきなり家に入ってきて、沙由に、沙由に……ッ


瞳が憎しみで彩られている。
その目はまっすぐ沙由の肩にかけられた大胡の手に向かっていた。
サザラは嫉妬しているのだ、大胡に。
大胡が沙由の体に触れたことを怒っている。

沙由に、なんだよ?

大胡も敵を前にして気が高ぶっているのだろう、臆せずに言い返す。

沙由さんを連れ出そうとしたから怒ってんのか?
いいか、よく聞けよバケモノ野郎
沙由さんは人間だ
そして、俺も人間だ
人間が人間を人間の世界へ連れ戻して、何が悪いんでぇ
人間はな、人間と一緒に暮らすのが一番幸せなんだ!!


そんなことない。
沙由は胸の内で叫んでいた。
怖くて、とても言葉に出して言えない代わりに、涙ぐんで二人を見た。
大胡は気づいていないのか、荒々しい言葉をサザラへ投げ続けている。

その証拠に、どうだ、見ろ!?
沙由さんがいるってのに屋敷へ水なんか流しやがって!
水を流したってのは俺達を殺す為だったんだろ、どうせ
でもな!
沙由さんが残ってるって判っていながら水を流したのは、どういうつもりだ!?
お前ら沙由さんまで一緒に殺そうとしやがったんだろ!違うかっ


それはサザラにも突かれて痛い点だ。
この青年の言うとおり、兄は沙由も殺すつもりで水を放出したのだ。
沙由はサザラにとっては家族同然の女性だが、シズクにとってはそうではない。
サザラが恋した少女だから、仕方なく館へ住まわせている相手なのだ。
曲者侵入と言っておけば、沙由が死んでも言い訳はできる。
逃げろと兄は警告していた。
だから、逃げ遅れた沙由が悪いのだ……


魚人も人間と同じだ。
汚いという点では人間だけを非難できまい。
兄を傷つけたくはないので口にはしなかったが、サザラは年々シズクに対して暗い感情を抱くようになっていた。
いけない、と思う。
家族に対して憎しみを持つのは、褒められた感情ではない。
しかし、いくら理性で制しても感情は押しとどめられそうになかった。
何故、兄は判ってくれないのだろう。
沙由は。沙由だけは、他の人間とは違うということを。
侮蔑する者がいる。
それが人間だったからというだけで、全ての人間をそうだと判断するのは過ちだ。
目の前の少年も同じだ。
シズクと同じ偏見で凝り固まっている。
そして、その偏見を兄の行動が余計手堅いものに変えてしまった。
彼は水を流し入れた魚人を、けして許さないだろう。
殺されかけたのだ。
おまけに、自分の他に見知らぬ女性まで殺されそうになっていた。
彼が怒るのは判る。
沙由を、ここから連れ出そうという気持ちも判らないではない。
だが――

水を流したのは、僕じゃない!兄が

兄?
兄貴のせいにすんのか、お前サイテーだな
兄がどうとかいう問題じゃねぇんだよ
人がまだ残ってるのに、お前らは水を流した
家族同然なら、まず全員いるか調べてから水を流しやがれってんだ!


ごもっともである。
サザラは、不意にハッとなって沙由を見た。
沙由も怒っているのではなかろうかと危惧したのだ。
怒っているどころか、涙を流している。

ごめんなさい

サザラは大胡ではなく沙由に向けて謝った。

謝って許されるものではないですけれど
でも、突然だったのです
突然、兄が水を流すと言い出して
それで僕は あなたを探しに
いえ、言い訳ですね これは……
本当に、ごめんなさい
あなたに怖い思いをさせるなんて、僕は本当に最低だ


泣いている沙由は、ふるふると首を振った。
言葉を言えば涙となり、伝えることができない。
違う。
そう伝えたい。
なのに言葉にできず、沙由は自分のもどかしさに苛ついた。
泣き続ける沙由に勢いを得たか、大胡はなおも続けている。
サザラを、そして沙由までも傷つけていく言葉の攻撃を。

あぁ、最低だ
自分の家で他人を殺そうとするんだからな
そんな奴に人間である沙由さんを任せてられっかよ
さぁ、沙由さん 行こうぜ
ここはあんたの住む場所じゃない
ここにいたら、いつかホントに殺されっちまうぞ


腕を掴まれた。
その手を振りほどいたのは誰の手であったか。
サザラ?
――いや。
振りほどいたのは、沙由自身の力であった。

あなたに、何が判るの
何も知らないくせに


震える語気を押さえて、そう言うだけで精一杯だったけれど。


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