Dagoo

ダ・グー

寒い夜

乾いた空を見上げていると、今にも雪が降りだしそうだ。
コートの襟を寄せ、犬神死狼は白い息を吐いた。
今年の冬も寒さは厳しく、あばら屋に住んでいる例の彼――ダグーの様子が気にかかる。
何度も自分の事務所へ来るよう誘ったりもしたのだが、一度として、良い返事を貰った試しがない。
なんでも彼曰く、プレハブハウスのほうが落ち着くんだそうだ。
だからといって暖房も入れない、ほったて小屋では客の入り足も悪くなろう。
そんな心配までするのは、余計なお世話かもしれない。
もしかしたら彼は北国の出身で、この程度の寒さなど本当にものとしていないのかも。
ダグーの出生は謎に包まれている。
東京の生まれではない、それは犬神も調べてみたから知っている。
もっと言えば、日本の生まれでもない。日本に彼の戸籍謄本は存在しない。
それに秋葉原にあのプレハブ小屋が建ったのは正確には、いつなのか?
付近の住民は、誰も覚えていないという。
そればかりか建物の場所を言っても、尋ねた相手全員に首を傾げられた。
「あんな場所に、プレハブ小屋なんて建っていたっけ?」……と。
まるでプレハブハウスなど、あの場所に存在しないかのような言われようだ。
しかし現に今、小屋は犬神の前に建っている。
待ち合わせの場所に一時間経っても現れない相手を、迎えに来たのだ。
今日、一緒に食事しようと誘ってきたのはダグーのほうだ。
なのに待ち合わせを当の本人が、すっぽかすとは何事か。
「ダグーさん、いらっしゃいますか?」
礼儀正しくドアをノックすると、中からランカの元気な声が返ってきた。
「ダグーは風邪で寝てるのだ!ランカは今から薬草を採りに出かけるのだ!」
風邪?それに薬草?
買うなら薬草ではなく風邪薬であり、風邪なら医者にかかった方が良いのでは。
「失礼します」
犬神がプレハブ小屋へ足を踏み入れてみると、普段は小汚いソファの置いてある場所に布団が敷かれ、ダグーは、そこに寝ていた。頭に氷嚢を置かれて。
「こんにちは、ダグーさん。それにランカさんも」
ランカの姿を目で探し、顔にこそ出さなかったものの犬神は驚いた。
彼女の格好と来たら、リュックサックに虫取り網。
腰には鎌をぶらさげて、野山にでも行きかねないスタイルだ。
「ずいぶんと重装備ですね。一体どちらへお出かけですか?病人を放って」
「だから薬草を採りに行くって言ったのだ!魔界一効くって噂の薬草の生えてる位置が判ったのだ!」
「魔界一?それを言うなら、世界一では」
「魔界一であってるのだ!!情報屋がそう言ったんだからッ」とランカが激高して叫ぶのへダグーの咳が重なって、犬神は布団の側へ膝をついた。
「大丈夫……ではなさそうですね、ダグーさん。ですから冬は僕の事務所へおいで下さいと何度も言いましたのに」
ゲホゴホとしきりに激しく咳き込んだ後、ダグーはやっと言葉を切り出す。
「いや、最初に風邪をもらってきたのはランカでね。俺は、どうやら、そいつを移されたらしい」
「そうなのだ」とランカのテンションも少々落ちて、彼女は暗い目で小さく呟く。
「だからランカがダグーを治してやるのだ。パラダイームを必ず見つけてやるから待ってろなのだ!!」
「パラダイーム?」
そんな薬草、あったかしら。
犬神の疑問に答えることなく、山菜狩りだか昆虫採集にいくんだか判らない格好の少女は表へ飛び出していった。


空っ風の吹き込む扉を静かに閉めると、再び犬神は布団の側に腰を下ろす。
「お加減は、どうですか?」
「うん……熱っぽさが取れなくてね、まいったよ。急にグラッと来たんだ、目の前が」
ダグーの顔は赤く火照っているし、パジャマは汗で濡れている。
額に手を当てなくても熱があるだろうってのは判っていたが、犬神は一応尋ねた。
「熱は計りましたか?それと、病院へは行かれましたか」
「病院?いや、病院は行きたくないというか、考えになかったな……」と言葉を濁し、ダグーは話題を変える。
「俺達は普段、あまり病気をしないんだ。だから何かあった時はランカが薬草を採ってきてくれるか、俺が採りに行っていたんだ」
「薬草?」
まさか、この二人は一度も病院にかかったことがなく、常に民間療法で治してきたとでも言うつもりか。
江戸時代じゃあるまいし、平成の今になって薬草で病気を治そうとする人など滅多にお目にかからない。
それに子供じゃないんだから、病院へ行きたくないだのと言っている場合か。
犬神は、ちらりと腕時計を見た。
今の時間では緊急病院しか開いていない。
「インフルエンザにも、その薬草とやらが効くとは思えませんけどね」
話している間も犬神は救急箱を目視で探すが、どこにも見あたらない。
それもそうか、病気になったら薬草で治してしまうんだっけ。この人達は。
仕方なくダグーの額に手をあててみて、あまりの熱さに犬神は、また驚かされた。
触っただけでも大体判る、40度に近い高熱だ。
「熱……高そうですね。明日は一緒に病院へ行きましょう」
「い、いや、しかし」
じろっと犬神に睨まれて、ダグーは小声で続けた。
「保険証も身分証明書もないんだ。それでも医者は診てくれるのかな」
「どうして――」
犬神は重ねて尋ねようとして、ハッと気づく。
そうか。どうして、その結論に思い至らなかったんだろう。
彼は密入国者だ。だからパスポートを持っていないし、保険証も所持していない。
彼がいつ、この秋葉原に住み着いたのかも誰も知らないってわけだ。まっとうな入国ではないのなら。
むぅ、と腕を組んで考え込んだ後。犬神の腹は決まった。
「仕方ありません。では医者の代わりに僕が看病します」
「君は医学の心得もあったのか?」
朦朧とした頭でダグーが問えば、犬神は首を真横に振り、ほんの少し微笑んだ。
「いえ、おばあちゃんの知恵袋程度の知識しかありません。でも、今から保険証を偽造するのでは時間がかかりすぎますからね。薬草を煎じて飲むよりは、役に立つ看病をしてさしあげますよ」

まず最初にしてあげられるのは、汗だくの彼を脱がすことから始まった。
「このパジャマ、いつから着ていたんです?」
汗の臭いが酷いし、ぐっしょりと水分で重たくなっていて、しぼったら結構な量になるんじゃないかと思われた。
「んー……昨日の朝から、かな。記憶にないんだ、ランカが着せてくれたらしいんだけどね」
すると昨日の朝グラッときてから、ずっと布団でダウンしていたのか。
犬神の携帯へ連絡できるわけもない。
上を綺麗に畳み、お次は下も脱がそうとすると、慌てたようにダグーが「あ、下はいいよ」と拒否する。
犬神はそれを許さず、ぐいっとズボンをずり下げる。
「病人は看病に従って下さい」
じっとりと汗に濡れたお尻がお目見えして、何を思ったか犬神はそっと手を押し当てた。
「ひゃあ!」
途端に悲鳴をあげてダグーが仰け反るものだから、思わず犬神の唇からも苦笑が漏れた。
「なんて声を出すんですか、お尻を触られたぐらいで」
「い、いや……君の手って冷たいんだね」
そうかもしれない。ずっと外で待ちぼうけをくらっていたから。
「きっと心が冷たいせいですよ」
愚痴をいうでもなく犬神はさらりと流し、奥に置かれたタンスを開いて乾いたタオルを取り出す。
布団の中から声が追いかけてきた。
「それはおかしいな、俺の聞いた話と違う」
「どう違うというんです?」
「俺が聞いたのは、手の冷たい人は心が温かいっていう話だ」
「迷信ですよ」と笑い汗を拭き取ろうとする犬神の手を、ダグーの汗ばんだ手が掴む。
「じゃあ聞くが、心の冷たい人が病人の看病なんかしたがるかい?君が優しい証拠だよ」
面と向かって言われては犬神も咄嗟には言葉が出ず、手を掴まれたまま、しばらく背中の汗を拭いていたが、ややあって反論した。
「……いいえ、やはり迷信です。僕が誰にでも優しい人間だと思っているのでしたら、的外れにも程があります。それに」
ダグーを真上から見下ろす。
「手の冷たい人が優しいのでしたら、温かい人は冷たい人間になってしまいます。今こうして僕の手を握っているダグーさんの手は温かい。でも、あなたは冷たい人間ではない」
「それはどうかなぁ」と熱に浮かされた瞳でダグーも言い返す。
「今、俺の手が熱くなっているのは熱があるからだよ」
それには耳を貸さず、犬神は一旦タオルを絞りに立ち上がる。
洗い場でタオルを絞り、戻ってくると。今度は首筋から腹にかけて正面を拭き始めた。
「僕が今こうして看病しているのは相手が、あなただからです。あなた以外の人を看病など、考えたくもありませんね」
「そんなことを言って、身近な人が倒れたら君はきっと助けるんだろう?」
軽口を叩くダグーの顔を横目に見つめ、犬神はぽつりと答えた。
「身近な人など、僕にはいません。あなたしか」
その口調が、あまりにも寂しそうだったものだから、ダグーは、しまったと臍を噛む。
彼は一度も肉親の話を、ダグーにしてくれたことがない。
恋人がいるといった浮いた話だって出てこない。
本当にダグーぐらいしか、気の許せる友人がいないのかもしれない。
「うん、そうか……」
だからといって外向的になれよだの、友達作る努力をしろよといった説教をするつもりはない。
犬神だって子供ではないのだし、友達を作る努力をする気があるなら言われるまでもなくやっているはずだ。
「だったら」とダグーは続けた。
「俺と一緒に住むかい?」
「お断りします」
にべもなく断ると、ほんの少し口元を和らげて犬神が付け足した。
「あなたが僕と暮らす、というのでしたら歓迎しますけど」
まぁ、ストーブのないオンボロプレハブで一緒に暮らそうと言われても、犬神だって嫌だろう。
年中大騒ぎの小娘も一緒とあっちゃ、毎日が嫁姑戦争並の口論合戦にもなりかねない。
犬神とランカはお世辞にも仲良しとは言えず、一方的に犬神がランカを避けているようにも見えた。
彼は騒がしい奴を好まない。
だから、この間、探偵事務所の所長と会った時も態度が冷淡だったのだ。
「んふぅっ」
不意に下半身をくすぐったい感触が走り、ダグーが慌てて己の股間へ目をやると、ご丁寧にも犬神がタオルで股間の汗を拭っている。
「ちょ、ちょっと、そこはいいよ!自分でやるから」
「駄目です、あなたは高熱を出しているんですよ?じっとしていて下さい」
「で、でも、そんなじっくり拭かなくても」
タオルは股間にぶらさがったナニでアレなブツをしっかり包み、そいつを犬神が上下に擦ってくるのだ。
彼に対して変な気持ちがなくても、妙な気持ちになってしまう。
「じっとり濡れていて不潔ではありませんか。デリケートな場所は常に清潔を保つべきです」
「なら、風呂に入れば」
「忘れたんですか?あなたは風邪引きなんですよ」
ぎゅっと己のイチモツを握りしめられ、ダグーは「ひゃうっ」と短い悲鳴を発し、無我夢中で犬神の肩へしがみつく。
彼のコートは冷え切っていて、火照った体に心地よい。
一方の犬神は唐突に抱きつかれたショックでか、片手はダグーのアレをタオル越しに掴んだまま硬直していた。
ダグーの熱が直に伝わってくる。力強い腕が背中に回されている――
小さく呟く彼の謝罪が、耳元に届く。
「こんなに冷え切ってしまうまで待たせてしまったんだね、ごめん」
逞しい腕に、そっと触れ。犬神もダグーの耳元へ囁いた。
「いいえ、そんなの。あなたの病気と比べたら、大したことではありません」
「俺が風邪をひいたのは、日本の風邪を甘く見ていた俺自身の過失だ。君は、待っていてくれたんだろ。こんな無責任な俺の約束を信じて」
それを言い出したら、ダグーに風邪をうつしたのはランカだし、本を正せば悪いのは全部彼女ではないか。
風邪をひかない自信があったにしろ、風邪をひいたのを過失と言われると、おかしな感じがした。
「えぇ。あなたが約束を破るなんておかしいと思ったから、こちらへ来たんです。来て、良かった……」
しばらく抱き合っていたかったが、すきま風の入るあばら屋で、いつまでも彼を全裸でいさせるわけにはいかない。
そっと体を放し、犬神が立ち上がる。
どこへ行くの?と目で尋ねてくるダグーへは、微笑んだ。
「着替えを取ってきます。あと、お台所もお借りしますね」
奥のタンスを引っかき回しダグーの衣類と思わしき上下を見つけると、今度は水場へ向かい鍋を出す。
純米酒を火にかけ、それから卵を幾つか冷蔵庫から出してきて、片手で綺麗に割るとボールの中に落とす。
卵をかき混ぜながら、犬神は考える。
ダグーは日本の風邪を甘く見ていた、と言っていた。
彼の日本暮らしが、あまり長くない証拠でもある。
卵酒を飲ませてやったら、どんな顔をするだろう?楽しみだ。
それにしても、薬草で風邪を治すなんてと笑った自分が卵酒という民間療法に頼ろうとしている。
不意におかしくなり、くすくすと一人で笑った後、犬神はタンスへ戻り、着替えを持ってダグーの元へ戻った。
「楽しそうだね」
布団の上に胡座をかいたダグーが言う。
「えぇ、とても。あなたの看病が出来るなんて、これも神の思し召しでしょうか」
「君は宗教論者だったの?」
「いいえ、無宗教ですよ」
軽口を楽しみながら、犬神はダグーへ服を着せていく。
パンツを履かせる時、再び股間に手が触れて、ドキマギしてしまった犬神は内心の動揺を見破られまいと顔を伏せてパンツ、ズボンと手早く履かせる。
拭いている時は何でもなかったのに、どうして――
その理由を盛りあがったパンツに見いだし、今度こそ犬神は頬を上気させた。
「どうしたんだ?犬神くん、顔が赤いぜ。俺の風邪がうつっちゃったんじゃないだろうね」
そんなことを尋ねてくる相手に、やはり目は伏せたまま犬神が声を荒げる。
「どうして、そんな状態になっているんですか!?」
「そんな状態?」
「とぼけないでください、もうっ」
台所へ逃げ込もうとする処を後ろから抱きつかれ、犬神の足が止まる。
「どうしてって、そんなのは君が一番ご存じだろうに。あんなに丁寧に拭かれたら、こうなったって仕方ないだろ。何しろデリケートな場所だしね」
「だ……駄目ですよ、立ち上がったりしちゃ」
注意はしても振り払おうとしない犬神に密着したまま、ダグーは彼の耳元へ息を吹きかける。
びくりと体を強張らせるが、それでも犬神はダグーを押しのけたりしなかった。
「立ち上がれるほど元気になったと喜んで欲しいな、ここは」
「まだ元気になっていません、あなたは。元気になったと錯覚しているだけですよ」
「元気になったよ」
赤らんだ頬に軽く唇を寄せ、ダグーは囁いた。
「君の優しさに、だいぶ元気をもらった」
犬神が囁き返してくる。こちらを全く振り返らないで。
「……なら、あとは大人しく寝ていて下さい。今、寝るのに良い物を持ってきます」
つっけんどんな物言いだが、ダグーには判る。
彼は照れているのだ、それも今まで見たこともないぐらいに。
手の冷たい人が優しいなんて迷信だと彼は言った。
でも、犬神はダグーには優しい。なら、やっぱり彼は優しい人なんじゃないか。
本当に優しくない人だったら、たとえ相手が誰であろうと優しくしたりできないのではなかろうか。


その後の顛末を、犬神は、よく覚えていない。
ダグーが卵酒をおいしいねと無邪気に喜んだところまでは、覚えている。
だが帰宅したランカに、せっかくの鍋をぶちまけられた、その後からがプッツリ途切れている。
そして今、自分の事務所に嬉々としてエプロンをつけたダグーとランカが居ることに彼は疑問を持ったのだが。
「駄目だよ、起き上がっちゃ。病人は大人しく寝ていなさい」
「そうだ、そうだ!寝てるのだぁ!」
二人がかりで押しつけられ、ベッドに仕方なく潜り込んだ。
熱っぽさは全然ない。もちろん風邪をひいてもいない。
なのに、どうして自分は病人扱いされているのか?
あの後、実は犬神がブチキレてランカと乱闘になり、おいぬ様vsダグーチームのバトルなど色々あったのだ。
最終的には彼の口へ日本酒を注ぎ込み、意識が途絶えたのを良いことに事務所へ運んでくるがてら。
突然思いついたダグー達による『看病ごっこ』につきあわされているとは、夢にも思わない犬神であった。


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