2.記憶の狭間に消えたもの
俺が一番覚えている景色は飾り気のない、どこまでも続く壁と、塵一つ落ちていない廊下。いつも白い服を着た人達が、必ず一人は歩き回っていた。
といっても、俺は自由に部屋を出入りできた訳じゃない。
自由に歩き回っていい時間は、決まっていた。
朝はいつも同じ時間に起きる。
食べ物を全部練り込んだみたいな、ペースト状のモノが朝ご飯だ。
美味いも不味いもない。機械的に飲み込んで朝ご飯を終えると、その日のトレーニングが始まる。
まずは狼人間になって、飛んでくる小さいボールをよける。それと、匂いで目標を探す。
その次は狼になって、動き回るターゲットを捕まえるんだ。これは俺よりシヅが得意だった。
シヅってのは、俺と一緒に、そこに住んでいた女の子だ。
俺と同じ黒髪で、うんと華奢な子だったよ。
子供は俺とシヅしかいなかった。
俺達は、アーティウルフっていうんだ。
白い服――そうそう、白衣って呼ぶらしい?白衣の"研究者"が言っていたな。
アーティウルフは人から狼人間へ、さらに狼人間から狼に変身できるんだ。
これは、俺とシヅにしか出来ないらしい。
研究者は出来ないんだって。アーティウルフじゃないからか。
午後は研究者とペアを組んで、お昼寝。
お昼寝している間、マッサージしてくれるんだけど、とても気持ちがいいんだ。
俺は、この時間が一番好きだった。
俺達は毎日、同じ訓練を受けていた。
訓練は、いつか俺達が外へ出た時に役に立つんだと研究者が教えてくれた。
だから俺達は何の疑いもせず、同じような毎日を過ごしていた。
――その日は、いつもと違っていた。
いつもなら夜中は部屋の鍵が閉まっていて廊下に出られないのに、その日だけは開いていたんだ。
こんな夜中に廊下へ出たら、怒られるんじゃないかって思ったけど、好奇心に負けて俺は外に出た。
そうしたらシヅも、やっぱり廊下に出ていて、眠たい目をこすっていた。
「何かあったのかな?」
俺が尋ねると、シヅは、かぶりを振って「わかんない」と答えた。
そうだ。判るわけがない。俺にだって判らないのに、シヅが判るわけない。
どこか遠くでザワザワしていて、嫌な空気が張り詰めていた。どうしたんだろう。
俺とシヅが恐怖で固まっていると、やがて研究者が一人走ってきた。
いつも朝食を出してくれる、女の研究者だ。名前はラリッサ。
眼鏡をかけていて、すました感じに見えるけど、俺とシヅには優しいんだ。
「あなた達、早く地下シェルターにお逃げなさい!さぁ、早く!」
切迫した顔で言われて、俺とシヅは互いを見つめる。
地下シェルターがあるのは知っている。
でも、そこは普段入っちゃ駄目って言われていた場所なんだ。
「...どうして?」
シヅの問いに、ラリッサが答える。
「テロリストが襲ってきたの。奴らはきっと、あなた達が狙いよ」
「テロリストって?」
俺の質問は無視された。
「いいから、早く!」と背中を押され、廊下を走らされる。
「私達が応戦する。本部にも救援を頼んだわ。それまで持ちこたえられると――キャアッ!」
でも途中で壁が吹っ飛んで、瓦礫が彼女の頭を直撃した。
頭を押さえて倒れ込むラリッサを、俺とシヅが取り囲む。
「だ、大丈夫!?」
咄嗟に声をかけたけど、どう見ても大丈夫じゃなかった。
だって血が出て額に流れてきているし、眼鏡も割れてラリッサの足下に落ちていた。
「わ、私のことはいいから……早くお逃げなさい」
って言われても、ここに置いていくわけには、いかないじゃないか。
俺とシヅはオロオロするばかりで、一歩も動けない。
そうこうしているうちに今度は反対側から誰かが走ってきて、問答無用で俺とシヅを横抱きに抱えてくるもんだから。
「やめろ!離せ、降ろせ!!」
俺は無茶苦茶に暴れて太い腕を叩いたけど、がっちり捕まれていて離してくれそうもない。
反対側のシヅが唸っている。
狼になろうとしているみたいだけど、やっぱり逃げられないみたいだ。
「静かにおしよ、オチビさん達!大人しく出来ないなら、廊下に叩きつけるよ!?」
太い腕の人が怒鳴り、俺はビクッと身をすくませる。
こんなふうに、誰かに怒鳴られたのは初めてだ。怖い。
涙を浮かべる俺を見て、太い腕の人――その時はじめて気づいたけど、その人は女だった――が、表情を緩ませた。
「冗談だよ、だが大人しくしていて欲しいね。こちとら、あんた達を救出しに来たんだからさ」
「救...出...?拉致じゃ...ないの?」
反対側からシヅの声が聞こえる。女の人は頷いた。
「あぁ、そうだ。とある縁で頼まれてね、あんた達を助けにきた」
きょとんとする俺達へ、さらに続ける。
「ここを出れば、今よりずっと美味しいものが食べられる。夜は好きな時に眠れるし、朝寝坊したって大丈夫だ。変な特訓をさせられていたんだろう?そんなものとも、もう、ここを出さえしちまえば、永遠にオサラバさ」
今より美味しいもの。
今より楽な生活?
そう言われても、いまいちピンとこない。
でも、建物の外には俺もシヅも興味があった。
何度言っても、お願いしても、絶対外には出させてもらえなかったから。
「じゃあ、出よう、早く出よう!俺、外の世界を見てみたい」
はしゃぐ俺を見て、女の人がにっこり笑う。
「いい反応だ。それじゃリクエストに応えて外に出るとしようか」
反対側のシヅは大人しかったけど、俺が聞くと、ぽそぽそ返ってきた。
「シヅも出たいよね?外の世界、見てみたいよね」
「うん...ダグーが見たいなら、わたしも見たい...」
シヅは俺の言うことには、いつも賛成するんだ。
反対する彼女なんて、一度も見たことがないよ。
廊下は途中で煙っていたけど、煙の中を突っ切って、扉の向こうへ飛びだした。
扉の向こうは――廊下がなくて、辺り一面真っ暗で。しかも、壁もないんだ。
「ここ...どこ?外...なの?」
怯えるシヅと俺に、女の人が頷いた。
「そうだ、外の世界だ。ごらん、後ろを」
足下に降ろされて、俺達はびくびくしながら背後を振り返る。
そして驚いた。
建物が。
さっきまで俺達のいた建物が、ごうごうと赤い炎に包まれて燃えていた。
「何これ...どうして?」
「か、火事だ!」
呆然とするシヅ、騒ぐ俺に、女の人が言う。
「すまないね、あんた達を救い出すには奇襲をかけるしかなかったんだ。だが、こんな建物は燃えちまったほうがいい。あんたらを誘拐して監禁した場所なんざ」
「……これから、どうするの?」
おどおどと女の人のほうへ振り返ると、彼女は俺の両肩に手を置いて、言い含めるように俺へ言った。
「いいかい、これからあんた達を大昔に送り込む。奴らの追跡を振り切るには、それしかない。向こうへ無事についたら、森を抜けてフェンリルの娘でミンディって子を訪ねるんだ」
「お、大昔……?」
「フェンリル...ミンディ...?」
何を言っているのか判らない。大昔って、どれくらい前?あとミンディって誰だ?
それに、一緒に来てくれないの?シヅと二人だけで、道も判らない場所を彷徨えと?
「い、一緒に……来て?」
もじもじする俺の頭を撫で、女の人はゆっくりと首を真横に振る。
「あたしは、まだ、ここでやり残したことがある。悪いが一緒には行けないよ。オチビさん達、お前達は二人で森を抜けるんだ。ミンディに頼めば、あんた達を必ず保護してくれる」
言うが早いか、さっさと炎上している建物の中へ戻ろうとするもんだから、俺は慌てて呼び止めた。
「ま、待って!戻ったら危ないよ!?」
でも、女の人はニヤリと笑って「大丈夫」と親指を立てると。最後に名前を教えてくれた。
「あたしの名はアイリーン。あんた達が生き続けていてくれたら、またどこかで会える日が来るかもしれない。じゃあな、ダグー、シヅ。必ず無事に、生きてミンディの元へ辿り着くんだぞ!」
「ま、待って...!!」
少し遅れてシヅも呼び止める。
けど、俺とシヅが一歩前に出ようとすると、激しい爆煙が俺達とアイリーンの間を遮り、何も見えなくなってしまう。
ゲホゲホと煙にむせているうちに、視界がグニャグニャと歪んだような気がして、次の瞬間には立っていられなくなった。
な、なんだ、これ!?
上が下になって、地面が空になる感覚。
おかしい、こんなのおかしい。
頭がグワングワンする。気持ち悪い、世界が歪む。
「シヅ、シヅッ、俺から離れちゃ駄目だ!シヅーッ」
俺はシヅへ手を伸ばし、シヅもまた俺へと手を伸ばす。
「ダグー...ダグーッ!」
互いの名前を呼びながら、俺の意識は次第に遠のいていった。
「――それで?」
長々と身の上を語ったダグーは、今、ヴォルフの目の前で狼になってボールにじゃれている。
はむはむとボールを噛んでいたダグーが顔をあげ、ヴォルフを見た。
「うん、それで森の中で迷っているうちに、俺、心細くなっちゃって……明るいほうへ歩いていったら、ヴォルフと出会ったってわけ」
にわかには信じがたい話だ。
ダグーはずっと、孤児院かどこかに幽閉されていた。
それが何者かに襲撃されて、外の世界に連れ出された。そこまではいい。
だが、今よりずっと後の世界から来ただって?突拍子もない話だ。
時間を行き来する方法など、人よりずっと長い年月を生きてきた自分でも聞いたことがない。
考えられるのはアイリーンがダグーを騙したか、或いはダグーがヴォルフに嘘をついているかの、どちらかだが。
しかしキラキラした瞳で此方を見ているダグーからは、邪悪っぽさも嘘つきらしさも見つからない。
それにダグーがヴォルフを騙したとして、一体何の得があるというのか。
こいつは、ただの可哀想な迷子だ。
自分と同じ宿命――狼に変身できる業を持つ者だ。
「シヅってのとも、はぐれちまったってのか」
「うん」
しょんぼり項垂れる狼を抱き寄せると、ヴォルフは膝の上に乗せてやる。
「その、ミンディってのが何者かは俺にも判らんが……」
「ヴォルフでも知らないの!?」
耳をピーンと立てる狼の背中をヴォルフは優しく撫で、落ち着かせようと穏やかな声で続けた。
「あぁ、すまんな。だが、お前が大人になるまでは、ずっと一緒にいてやるよ」
「ホント?」と、さっきまで絶望に浸っていたはずの狼が、嬉しそうに尻尾をパタパタさせる。
「あぁ、ホントだ」
今度はお腹を撫でてやろうと手を伸ばすと、その手をダグーが、はしっと前足で押さえてくる。
「あのね、お腹や背中もいいけど、ここを撫でてくれると一番嬉しいな」
そう言って誘われたのは、股間。
正確には、股間に生えた男のシンボルであり……
「お、おいおい」
年端もいかぬ子供の予期せぬおねだりにドン引きするヴォルフにもお構いなく、ダグーは輝く笑顔を見せた。
「あのね、研究員とお昼寝する時は、いつもココんとこを撫でられていたんだけど、すごーく気持ちよくって……だから、ヴォルフにもしてほしいの。ダメ?」
なんてぇ施設だ。さすが子供を誘拐して幽閉するだけはある。
しかも上目遣いに覗き込んでくるダグーは、くりんとした丸い瞳が狼の姿だというのに可愛くて可愛くて。
うっかり勢いよく抱きしめて、頬ずりしながら頷いてしまいそうになる。
「まぁ、たまにはいいかもしれんが、な」
なんとなく気まずくなって視線を逸らして顎をかくヴォルフを、ダグーは不思議そうに眺めていたが、すぐに興味は別の処へ移っていき、逆にヴォルフへ尋ねてきた。
「ねぇ、ヴォルフも一人なの?ひとりぼっちなの?」
「どうしてそう思う?」と聞き返してやると、ダグーは尻尾をパタンパタンさせながら、ぐるっと森を見渡した。
「だって、ここってこんなに広いのに、俺とヴォルフの二人しかいないじゃない」
「まぁ、ココはな」
ヴォルフも周りをぐるりと見渡し、苦笑する。
「森の中じゃあ、大概一人だ。一人のほうが都合がいいんでな。だが街に戻れば知りあいが沢山いる」
「どうして?どうして都合がいいの?」
「お宝を探すにゃあ、一人でやったほうが効率がいいんでね」
「お宝?ヴォルフは何をやっている人なの?」
ダグーは好奇心に目を輝かせている。何にでも興味を持つ子だ。
ヴォルフは正直に答えてやった。
「トレジャーハンティングをやっている」
不意に思いつき、こうも付け足した。
「なんなら、お前も一緒にやるか?トレジャーハンター」
ついさっき、一人のほうが効率がいいと言ったばかりである。
ヴォルフ自身も、それを思いだし自嘲気味に笑った。
単独活動を好んでいた俺が誰かを、それも、こんな年端もいかない小僧を相棒に誘うだなんて、どうかしている。
だが、悪い思いつきじゃない。
これから先、ずっと一緒に暮らすのだ。自分の仕事を手伝わせたっていいだろう。
家に置いていくよりは、つれていったほうが、こいつだって寂しい思いをせずに済むのではないか。
「うん、いいよ」
ダグーはあっさり頷いて、狼から人の姿に戻ると、もそもそと服に着替える。
やっぱり誘って正解だ。
ダグーは、あまり目端の利く子供とは言い難い。
どちらかといえば、ほんわりしている。
穏やかで、人を疑うことも知らないのだ。
そんな子を一人で家に置いといたら、どんな危険があるか判ったもんじゃない。
今は特に、戦争だなんだで世間の状況も危ういのだし。
「お前は今から俺の後輩だ。俺のことは仕事上、先輩として敬うように」
少し威張って命令すれば、即座に反応が返ってくる。
「敬う?先輩って呼べばいいの?」
灰色の瞳がヴォルフを見上げてきたので、ヴォルフは答える代わりに頷いてやる。
「そう。じゃ、よろしくね?先輩」
そう言って無邪気に微笑むダグーを、ヴォルフはがっちり抱きしめた。