彩の縦糸

其の十六 狐祓い

吉敷が居間へ戻ってきてみれば、九十九がレオナから質問責めにあっていた。
それも、今回の依頼とは関係あるようで全く関係ない内容の質問を。
「ねぇねぇ。ミナキさんって女性なんだよね?」
「あぁ。それがどうかしたか」
「つくっちって、ミナキさんのこと好きなの?」
勝手に九十九を妙な渾名で呼んだ上、突拍子もないことを尋ねている。呆れた子供だ。
九十九は赤くなって照れるでもなく冷静に答えた。
「馬鹿な詮索をするな。南樹と俺は同期というだけで、恋仲ではない」
「じゃ、ミナキさんがリタイアしたのを引き受けたのは同期のよしみってだけで?」
そうだと頷く彼に、ニヤニヤと薄笑いを浮かべ、レオナは否定する。
「そんなんじゃ、命をかけた依頼を引きついだ理由としては納得できないなぁ〜」
源太もニヤニヤしながら二人の会話を聞いていたが、相づちを打った。
「そうじゃの。別に九十九、お前が引き受けんでも他に人はおるでな。照蔵や甚平でも狐祓いなら出来ようぞ」
二人を、じろっと睨み「皆、忙しいのだ」と九十九は話題を終わらせようとする。
彼は無粋な詮索が嫌いなのだろう。生真面目な性格と見える。
まだ何か言い足そうとするレオナを遮るように、吉敷も先輩へ声をかけた。
「小夜子殿は、お帰りになりました。詳しい作戦は立てなくて良いのですか?」
救われた、という目を吉敷へ向けると九十九は頷く。
「お前が戻るのを待っていたのだ。今から説明する」

「策は二つ考えてある。まず、村全体の者が取り憑かれていた場合だが」
ちゃぶ台に乗せられた地図を指さし、九十九が説明するには。
様子を探りに行く小夜子に予め霊力のこもった符を渡しておき、ある地点へ散布してもらう。
九十九が指で示したのは、村全体を囲むポイントとなる場所。
符を媒体に、村全体を覆うほどの巨大な結界を張ろうというのだ。
符を置くだけなら霊媒師でなくても出来る作業だ。つまり、素人の小夜子にも可能である。
「次に、憑かれているのが個人である場合」
「それなんじゃがの」と、源太が手を挙げて九十九の説明を遮った。
九十九を真顔で見つめる。
「小夜子殿には、できるんかの?」
「何が?」
「その、憑かれている者とそうでない者を見分けることが……じゃ」
ああ、そうか。レオナが閃いて、ぽんと手を打つ。
「源ちゃんは、村人の辻褄合わせが出たら困ると思ってるんだよね?」
源太も頷き、「村人全員に口裏併せられたら、素人には手も出せんぞい」と最悪の予想を告げる。
ふむ、と九十九も考え込み、地図をくるくると畳んで懐にしまう。
「ならば最初から符陣の策でいくとするか。吉敷、」と吉敷を呼んだ。
「な、なんでしょうか」
まだ少し緊張している彼へ、九十九は言う。
「今から作る結界符を、お前から小夜子殿へ渡しておいてくれないか」
「へぇ、つくっちって堅物かと思いきや、愛の橋渡しも出来るんだね!」
などと冷やかすレオナのことは軽く睨み、九十九は構わず吉敷へ頼んだ。
「お前が一番小夜子殿に信頼されているようだ。お前から渡せば、余計な説明も要るまい」
信頼かどうかは怪しいものもあるが、それ以外の言葉で吉敷を喜ばせるのは面白くない。
「は……はぁ」
なんとも頼りない返事をして、吉敷は、ひとまず兄の横へ腰を下ろす。
だが源太のニヤニヤ笑いが自分へも向けられているのに気づき、一気に不機嫌になった。
「……なんだよ、その目は」
口を尖らして尋ねると、兄はレオナと似たり寄ったりな冷やかしを浴びせてきた。
「よかったな、モテない歴二十六年に終止符を打てて。これで吉敷も晴れて彼女持ちになれるというわけじゃ。めでたいのぅ」
余計なお世話だし、別にもてないという理由で彼女がいなかったわけでもないし、第一。
吉敷が一番好きな相手は、今こうやって冷やかしている源太本人なのである。
小夜子のことは、確かに好きだ。それは認める。
ほとんど一目惚れといってもいい。衝撃的なほど、小夜子は吉敷の好みにはまっていた。
しかし小夜子と源太を比べた場合、源太への想いは小夜子へのそれを大きく上回る。
顔がどう、性格がどう、といった問題ではない。
生まれてから今日という日まで、ずっと一緒にいた時間の長さが愛に比例していた。
――不意に、嫌な考えが脳裏をよぎる。
まさか兄は、源太は、女をあてがうことで、吉敷を自分から遠ざけようとしているのか。
兄も本音では兄弟が愛し合うことなど、おかしいと思っているのではなかろうか。
何故なら、源太には静という嫁がいるのだから……
旅行の際に吉敷のことを好きだと言ったのは、そう言わざるを得ない状況だったからだ。
きっと、本音で言ったのではない。機嫌の悪い弟をあやすためだ。
自分で勝手に妄想したとはいえ、極めて正論な結論に、吉敷は胸の内で慟哭する。
すっかり黙りこくって俯いた弟を前に、慌てたのは源太のほうであった。
「よ……吉敷?すまん、つい調子に乗りすぎてしもうたわい。機嫌を直してくれんかのぅ。まだ九十九の作戦会議も終わっとらんのだし。な?」
顔をあげると、レオナも九十九も、心配して吉敷を見つめている。
自分が場を乱してしまったと知り、吉敷は急に恥ずかしくなった。
ぼそぼそと九十九へ謝ると、話の続きを促した。
「うむ。符陣さえ敷ければ、あとの策はあってないようなものだ。奴の居場所を探り出し、俺と源太で撃破する。雑魚は吉敷、お前と里見に任せる。しかし小夜子殿が失敗するという懸念も外してはならん。そこで」
再び吉敷を見た時には不安の色は消え失せ、かわりに厳しい光が九十九の瞳に宿っていた。
「吉敷。小夜子殿が符陣張りに失敗した場合は、お前が聖獣を使い、敵の目をごまかす囮となってくれ」
「何故、吉敷なんじゃ?」
源太の問いに、九十九は自らの考えを話す。
「今回の件では、お前と俺が攻撃の要だ。それに奴らは我々猶神流を狙っているのだろう?なら、お前の弟は適任だ」
里見玲於奈は部外者、山伏だ。
猶神流でもない奴の陽動に、敵が乗ってくるとも思えない。
彼の言うことはもっともで、納得した吉敷は深く頷いてみせる。
「心得ました」
「頼んだぞ。お前が敵を引きつけている間に、俺と源太で符陣を張る」
九十九も強く頷き返すと、用意できた符を何枚か吉敷に手渡した。
「明日にでも、これを小夜子殿へ渡しておいてくれ」
細長い四角に切られた紙、その中央に、ややこしい絵柄が描かれている。
これが封印を意味する術式なのだというのは、新米の吉敷でも知っていた。
霊媒師になると決めた年頃よりも前、霊媒師だった父親に教えてもらったからだ。
「囮役、吉敷一人で大丈夫か?」
心配そうに眉根を寄せて尋ねてくる兄へは、ぷいっと明後日のほうを向いて応えた。
源太とは目を併せづらいものがあった。先ほどの妄想が尾を引いている。
「平気だ。いつまでも素人扱いするなよな」
初仕事を失敗したくせに、とレオナや兄に突っ込まれるかと思ったが、それはなく。
代わりに、どことなく落胆した源太の「そうか」という呟きを耳にし、吉敷は少し後悔した。

会話が一段落した時を見計らったかのように、軽い電子音が鳴り響く。
「失礼」といって九十九が部屋を出ていくのを見届け、レオナは兄弟にこっそり耳打ちする。
「電話、誰からかな?ミナキさんだったりすると面白いよねっ」
「随分と執着しとるのぅ。南樹と九十九がデキとるという発想は何処から出てきたんじゃ?」
源太に問われたレオナは、ふっ……と彼の顔を見て小さな溜息をついた後。
「皆が忙しいってことは、つくっちだって忙しいってことだよね?なのに自分の仕事後回しで引き受けるなんて、何かあるって勘ぐるのが普通じゃない」
乙女らしい発想で、ものを言う。
「問題は、つくっちがミナキさんを好きなのか、ミナキさんがつくっちを好きなのか……」
しつこい話題に、うんざりしていた吉敷も口を挟む。
「いい加減にしておけよ。十和田殿もオカマにだけは詮索されたくないだろ」
「またオカマって言った!レオナはオカマじゃなくて女の子なの!!」
おかげでオカマ論争が始まってしまい、吉敷とレオナは喧々囂々の喧嘩を繰り広げるハメに。
まぁまぁと宥める源太もそっちのけで、居間には険悪な空気が生み出される。
それでも殴る蹴るの喧嘩にまでは発展しなかったのは、九十九が意外と早く戻ってきたからだ。
「何を騒いでいるんだ?それより源太、すまないが急用が出来たので帰らせてもらう」
九十九へかかってきた電話は、大婆様からのものであった。
なんでも意識を取り戻した南樹が、依頼を引き受けた九十九へ伝言があるとのこと。
「南樹が?その伝言、わしらも聞きに行っちゃ駄目かのぅ」
尋ねる源太の袖を引き、レオナがひそひそと耳打ちする。
「駄目だよ、源ちゃん。邪魔しちゃ」
「何をじゃ?」
「ミナキさんは、つくっちと二人だけで愛の告白をしたいんだから」
うんうん、ともっともらしく頷くレオナにばかり気を取られていたが。
九十九の視線も白けていることに、吉敷は気づく。
「……聞こえているぞ。期待を裏切るようで悪いが、あいつの伝言はそんなものではない。狐憑きの正体について、朧気ながら見えてきたものがあると言ったらしい。まだ憶測の段階なので婆様には言えない、ともな」
「なのに、つくっちには言っちゃうんだ。やっぱり愛の成せる業だねぇ〜」
「源太、吉敷。お前らも来るというのなら急いで用意をしろ。今すぐ出かけるぞ」
レオナの茶々は完璧に無視し、九十九は長門日兄弟を急かした。
行くと言ったわけではないが、南樹の伝言とやらは吉敷も気にかかる。
それに共に仕事を引き受けた以上、情報はどんな小さなものでも知っておきたい。
「俺も行きます」と答える吉敷へ九十九が頷き、長門日兄弟は居間を出た。

自室へ向かう途中、廊下で二人きりになった。
台所から聞こえていた洗い物の音は、もう終わっている。静は部屋か風呂へ行ったのだろう。
無言で脇を擦り抜けようとする吉敷の腕を、源太は掴んで引き留めた。
すると弟は「……なんだ?」と、妙にテンションの低い疑問を投げかけてよこしてくる。
先ほど小夜子のことでからかって以降、吉敷は口数が少なくなったように思う。
レオナに対しても、彼は刺々しくなっていた。
普段からおしゃべりな方ではないしレオナに好意的というわけでもないが、今日は特に変だ。
小夜子のことでからかったから、まだ機嫌が悪いのだろうか。
それだけ、小夜子のことを真剣に想っている……ということか?
彼女がいない今、弟の口から本音を聞いてみたいと源太は考えた。だから、単刀直入に尋ねた。
「のぅ、吉敷。本音で答えてくれぃ」
「なにを」
「お前、本気で小夜子殿が好きなんか?その……兄ちゃんよりも」
尋ねた直後、びくりっと吉敷の体が痙攣する。
真顔で兄を見つめ、しばらく答えを脳裏で探し求めたすえに、彼は呟いた。
ほとんど聞き取れぬほど小さく、ぼそぼそとした、血を吐くような低い声であった。
「……なんで、そんなことが気になるんだ」
「なんで、って、そりゃあ、なぁ?吉敷のことは俺も好きだし、その可愛い弟が好きになった人物となりゃあ、色々気になるもんじゃろ?」
じっと見つめ返すと、吉敷の顔色が変わった。
暗い瞳に一瞬だけ憎しみが宿ったようにも思えたが、それは本当に、ただの一瞬で。
すぐさま青ざめたかと思うと、吉敷は源太の手を乱暴に振り解く。
「いくら兄弟でも、知っていいことと知っちゃいけないことの区別ぐらいつけろ!」
兄に向かって命令すると、吉敷は脇を擦り抜けて自室へ走り込んでしまった。
襖は鼻先でピシャリと音を立てて閉まり、引っ張っても開かない。
つっかえ棒でもされてしまったようだ。
「吉敷!」
だが、そこで項垂れて自分の部屋へ戻るほど、源太も聞き分けの良い兄ではない。
全体重をかけた体当たりで力ずくに襖をぶち破ると、中へ転がり込む。
襖と一緒に吹き飛んで蹲る弟の上に、馬乗りとなって怒鳴りつけた。
「吉敷ィ、ちょっと表に出ェ!何が不機嫌の元か知らんが、大仕事の前に悩み事は禁物じゃ。全部兄ちゃんにぶちまけて、すっきりせぇ!来い、森へ行くぞ」
「……うるさい……」
「口答えすんのは、向こうに行ってからじゃ!」
いやいやと力なく抵抗する吉敷の襟首を引っ掴んで、無理矢理立ち上がらせる。
だが無理に引っ張られ、吉敷も爆発した。
「うるさいッ!」
手を振り解こうとするが、兄の腕力は吉敷程度の力でどうにかなるものでもない。
いや、むきになって抵抗したせいで源太の怒りにも火をつけてしまったようだ。
「このッ、馬鹿がぁ!」
身構える暇もなかった。腹に重い一撃を食らい、意識が一瞬吹っ飛ぶ。
その間に、吉敷の体は源太の肩に担ぎ上げられてしまった。
「どうした、何を騒いで――」
二人の喧噪を耳にし、廊下へ飛び出してきた九十九を、目で制すると源太は言った。
「少し、吉敷と話をしてくる。お前は先に病院へ行っててくれるか」
「……判った。南樹からの伝言は、明日教えよう」
居間へ戻り、九十九がレオナにも退室を促すのを聞きながら、源太は家を出る。
担がれた吉敷は、もう抵抗するのをやめ、大人しくしていた。
横顔に諦めとも絶望とも取れる色を見つけ、源太は優しく声をかける。
「吉敷。さっきは悪かったな、殴ったりして」
返事は、なかった。


家の裏に広がる奥山。
長門日兄弟が普段、修行場として使っている。
彼らの両親も修行場として使っていた場所であった。
父のかけた結界は今も健在で、霊力のない者は迂闊に入り込めないように施されていた。
ここならば、静が呼びに来ることもない。
吉敷と腹を割って話すことができよう。
そう考えての移動であった。
滝の前で吉敷を降ろし、向かい合う形で自分も座る。
ともすれば項垂れがちになる弟をしゃんとさせ、目を覗き込んだ。
「さ、吉敷。何か腹にため込んでる不満があるなら、話してみせェ。怒ったりせんから、ちゃんと真面目に答えるんだぞ」


静かな夜であった。
時だけが、流れてゆく。


滝の流れる、ごうごうという音だけが、いやに耳につく。
ようやく、吉敷が言葉と判るものを吐き出した。
「いつも俺ばっかり話をさせて、それで満足か」
投げやりな、どうとでもなれと言わんばかりの一言に、源太の眉も跳ね上がる。
それでも源太は根気よく、その意味を尋ねた。
「お前ばかりに話させておったか。それはすまんかったな。なにしろ、お前は昔から素直じゃないんで、本音を聞くのも一苦労だったんでの。そう尋ね返すということは俺の本音が先に聞きたいんだと、そういう解釈でエェのか?」
吉敷は素直に頷いた。
だが浮かべた表情は、まだ素直とは言い難く、目の奥には怒りを孕んでいた。
少し考え、やがて源太が語り出す。
吉敷をなだめすかす時の慌てた調子ではなく、落ち着いた物腰であった。
「まず、お前のことは好きじゃ。旅行の時も言ったが、静と吉敷。この二人は俺の人生において無二の存在だ。どっちが欠けても、俺は俺としての正気を失うじゃろう」
旅行先では、そこまでの存在だとは言っていなかったような。
話のスケールが大きくなっている。半信半疑の目を、吉敷は兄へ向けた。
「お前が生まれてから、ずっと一緒に暮らしてきたが……俺はお前を、弟以上に想っとる。これは本当じゃ。だが、だからといって兄弟で生まれたことを悔いてもおらん」
吉敷の肩へ手を置くと、自分の元へ引き寄せる。
軽く抱きしめられただけだというのに、弟が身を固くするのを腕で感じた。
「兄弟でなければ、俺とお前をつなぐ線など一本も見つからなかったであろうからな」
それは、どういう――?と聞きたげな視線を吉敷に向けられ、兄は苦笑する。
「顔も性格も正反対。そんな二人が、どうやって知りあえるというんじゃ?兄弟という縁があったからこそ俺は吉敷と知りあえた。一緒に暮らすこともできた。だから、兄弟であることは後悔ではない。俺にとっては幸運の綱じゃ」
そして、小夜子へ想いを寄せる弟のことを、どう捉えているのか。
吉敷が一番聞きたかったであろう事を、兄は訥々と話し始めた。
「そんなお前に好きな女ができた。兄として、こりゃあ祝福してやらんといかん。理性では判っとるんじゃが、本能というものは、どうしてこう、判らず屋なのかのぅ」
がりがりと頭を掻き困ったように笑った兄は、弟から身を放し、真っ向から見つめた。
「つきあえ、つきあえと催促すれば、素直じゃないお前のこと。カッとなって、女とつきあおうとするのも、やめてしまうのではないか……そんな期待が胸の中を占め始めてきてな。それで、あの発言よ。本気ではなかった」
すまん、と頭を下げる。
そんな稚拙な嫉妬心を、兄が抱くとは思ってもみなかった。
何と言ったらいいのか思いつかず、吉敷の口から出たのは疑問とも愚痴とも取れる呟きだった。
「……じゃあ、兄貴は。兄貴の一番好きな奴って、誰なんだ?静と俺が同じ扱いなのは、もう判った。それとも……一番なんてものは、ないのか」
だが肯定するかと思いきや、兄はゆっくりと首を真横に振る。
「いや」
「でも、さっき、二人とも無二の存在だと言ったばかりだろ」
ぶつぶつと言いつのる吉敷を再び抱きしめ、何度も源太は首を振り続けた。
「それは正解であり、間違いでもある。吉敷、うまく言葉にはできんが……俺はきっと、お前を手放したくない一心で、そう思いこもうとしとるんじゃ」
手放したくない――?
ならば、やはり一番は静であり、吉敷はオマケということか。
とりあえず好きだと言っておけば安心するとでも思っているのなら、それは間違いだ。
深い溜息をつき、吉敷は身をよじる。腕の中から逃げだそうとしたが、力が強く振り解けない。
「吉敷」
先ほどより、兄の言葉にも力がこもっている。
「俺は、俺の力でお前が壊れてしまうことを恐れとる。俺が本気で愛をぶつけたら、お前の体も心も壊れてしまうのではないかと、それが怖くて本音も言えなんだ」
壊れるというが、源太の愛を受け止められないほど虚弱でも華奢でもないつもりだ。
それに吉敷が壊れてしまうというのなら、毎日受け止めている静はどうなる。
静はいいのか?壊れても。そう言いかける吉敷は、最後まで皮肉を言わせてもらえなかった。
思いがけぬほどの荒々しさで、源太に唇を吸われたせいでもあった。

半開きの口から、源太の舌がぬめりと入り込み、吉敷の舌にからみつく。
ざらざらとした感触が口の中を這い回り、しびれるような感覚が脳裏を貫いた。
長いようで、唇を奪われていた時間は短かった。
大きく肩で息をつき、吉敷は息も絶え絶えに兄の名を呟く。
「げ……げん、たっ」
解放されるまで、ひどく時間が経ったようにも感じたのは何故だ。
初めてだったから?誰かと唇を重ねるという行為が。
違う。
相手が源太だから、だ。
こんなかたちで無理矢理されたというのも、衝撃の一つではあった。
「……すまん」
涙ぐむ吉敷を見て、源太が項垂れる。
流れる涙を拒否と取ったのだろう。
「だが吉敷、俺は、本当にお前が」
今度は源太が言葉を失う番で、何やら言い訳を並べる兄に吉敷は己の唇を押しつける。
それは本当に押しつけただけといったもので、接吻と呼べるものでもなかった。
すぐに身を離し、吉敷はパッと後ろを向く。
とても兄を正視できそうもない。恥ずかしさで頬は上気し、頭からは湯気が出てきそうだ。
「勝手に……勝手に決めつけて、勝手に悩んでるなよっ。俺は、俺だって源太のこと……す、好きなんだからな!」
後半はほとんどやけくそで、怒鳴るように告白すると、吉敷は勢いよく立ち上がる。
もう駄目だ。
これ以上、同じ場所にいるのは無理、限界だ。
恥ずかしくて、死にそうだ!
今までずっと兄弟をやってきたが、今日ほど恥ずかしい思いをしたのは初めてである。
誰かに告白するというのが、こんなにも恥ずかしいとは知らなかった。
きっかけを作ったのは、兄の取った行動だ。
兄が、あんな真似をしなければ吉敷だって、胸の内を告白する気などなかったのに。
後ろで兄貴が「吉敷……」と感極まった声で何か呟いているが、知ったこっちゃない。
吉敷は全力で走り出し、慌てて源太も立ち上がる。
「おっ、おぉい吉敷、待て待て!」
兄弟は追いかけっこでもするように、家へと戻ってきた。

  
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