彩の縦糸

其の十二 闇の中で

その頃、吉敷達は依頼主の屋敷へと突入していた。
鈍い音をたてて、屋敷の扉が背後で閉まる。
闇に閉ざされた室内を、源太の持つ灯りが照らした。
「ふむ。思っていたよりは、酷くもないかの」
呟く源太の隣で、吉敷が声をあげる。
「酷くない、だって?」
屋敷の中は、ひどく荒らされていた。ここだけ台風にでも襲われたかのように。
窓という窓は全て割られ、締め切られた雨戸にガラスの破片が突き刺さっている。
足下にもガラスの破片は散乱していた。
ガラス以外にも椅子や机の破片が散らかっている。足の踏み場もない。
「心霊現象を再現してみたかったのかな?結果としては人為的な現場になっちゃったけど」
などと言いながら、レオナが居間へ出た。
軽やかな足取りで先を進む彼に追いつくと、吉敷は尋ねた。
「人為的?ここに取り憑いている悪霊は、誰かが使役していると言いたいのか?」
レオナが小さく頷く。
「だって野良の悪霊と違って、明らかに目的を持ってるもの」
「猶神流を呼び出す、という目的か。だが、まだ断定はできんぞ」
二人の後を追い、源太も応接間に足を踏み入れた。
この部屋も散々たるもので、真っ二つに折れた机が積み重ねられている。
飾り棚に置かれていたものは全て床に叩きつけられ、無惨な体を晒していた。
「おうおう、酒瓶も割られておるわ。ったく、勿体ないことをしよるわい」
床に這い蹲った源太が、ぺろりと酒瓶の口を舐めたとき。
異変は起こった。

突如、視界が真っ黒に覆われる。
「っきゃああぁぁっ!?」
闇を劈く甲高い悲鳴。そちらを振り向こうとして、吉敷は、あっとなった。
悲鳴の主、レオナがいない。
さっきまで隣を歩いていたはずなのに。姿すら見えないとは、どうしたことだ。
「よっしー、よっしー、どこなの!?何これ、全然見えないよ!」
声はすれども姿は見えず。レオナの悲鳴が室内に木霊する。
彼のほうでも吉敷を見失っているのか、動揺の中、微かに怯えも帯びていた。
闇になれているはずのレオナですら、怯えさせるとは。尋常ではない。
――そうだ、源太は!?
闇の中、床にしゃがみ込んでいたはずの兄に目をやるが、やはりこちらも見あたらない。
辺りは一面の闇。
手探りで何かを掴もうにも、手は空を彷徨うばかり。
足下に散らばっていたはずの家具やガラスの破片すらも、どこかへ消えてしまったようだ。
一体、何が起きたと言うんだ!
混乱する吉敷の耳元で、小さな炎が音もなく灯りをともした。
[いきなり仕掛けてきたね]
「火霊!」
炎と思ったのは火霊であった。
小さな馬は、ちろちろと燃えながら、何やら思案顔で頷いた。
[今度の悪霊遣いは、前のとはまた違う種類の使い手みたいだ。気をつけて、ヨシキ]
「そうか……しかし、助かった」
[え?]
闇の中で吉敷と火霊の目が合う。
火霊の目から見ても、吉敷は心なしか照れているように思えた。
「いや……急に皆がいなくなって、少し心細かったんだ。そこに、お前が現れてくれて」
[そんなの。お礼を言われるようなコトじゃないよ]
それに、と火霊の目が吉敷の懐を探る。
[管狐も一緒だよ。ヨシキは一人っきりじゃない]
「あぁ、こいつは」
懐から竹の筒を取り出し、吉敷は軽く振って見せた。
「いていないような存在だ。お前と一緒の心強さとは比較にもならん」
途端に白い塊が勢いよく飛び出してきて、吉敷に怒鳴り散らす。
[ちょっと!ボクのこと、そんなふうに見てたの?吉敷はっ]
全身を白い毛に覆われた小さな狐は、今にも泣き出しそうな顔で見上げている。
吉敷は肩を竦め「軽い冗談だろ」と管狐の頭を、小指で撫でてやった。
まだ不満そうな管狐は放っておいて、傍らの火霊へ尋ねる。
「それより火霊。この闇の正体は何だ?」
火霊の放つ赤い炎で照らされていても、やはり闇は闇のままであった。
視界は暗闇、自分達以外は何も目に入ってこない。
[悪霊の能力みたい]
「悪霊って、ここに取り憑いている?」
[うん]
ふわふわと漂う火霊に導かれるように、吉敷も後を追う。
足下がやけに頼りなく感じられた。床を踏んでいるはずなのに、感触が妙だ。
まるで何か――絨毯の上でも歩いているかのような、柔らかい感触を足の裏に感じる。
これもまた、悪霊の持つ能力の一つなのだろうか。
[取り憑いているというよりは……取り憑かされている?]
「さっき、はっきりと言っていたな。悪霊使いだと」
立ち止まり、吉敷は火霊を見上げた。
「悪霊が人為的なものだと、お前には判るのか」
[うん。気配が野生とは全く違うもの]
火霊までもが断言している。ということは、レオナの読みが当たったか。
さすがは現役山伏として、場数を踏んでいるだけはある。
[それに、人の気配。隠しているつもりだろうけど、僕達には丸見えだ]
前後にあるのは暗闇だけだが、火霊は、その先にいるのであろう人物へ呼びかけた。
[というわけで、そろそろ出てきたらどう?悪霊にも、僕らの声は聞こえてるんだろ!?]
返事はない。
だが闇の中、何者かが動く気配を感じたような気がした。
「俺達を分散させたのは、個別に叩くためか?」
そっと火霊へ尋ねると、小さな馬は頷いた。
[うん。でもレオナには死霊がいるし、ヨシキには僕達がいる。この場合、一番危険なのは]
「兄貴か」
もう一度頷く代わりに、火霊は心配そうな瞳を吉敷へ向けた。
黙って頷き返すと、吉敷もまた、闇へ向かって吼える。
「出てこい、闇陰庵!分散させただけで、俺達を倒せると思うなよッ」
すると、返ってきたのは低い声。
「……弱い……犬ほど、よく吠える……」
何処からだろうと吉敷は辺りを見渡したが、判るはずもなく。辺りは真の闇に包まれている。
声は直接脳へ響いてくる、そんなふうにも感じ取れた。
「長門日吉敷……九鬼を倒したは、まぐれであると……その身に教えてやる……」
九鬼というのは黒スーツの女の名であったはずだ。
やはり、この悪霊騒ぎは闇陰庵、九鬼の仲間の仕業だったようだ。
「名を名乗れ!」
なおも吉敷は闇に向かって騒ぐが、返事の代わりに聞こえたのは低い笑い声だけで。
[ヨシキ、危ないッ!]
目の前でパッと火花が散って、火霊と黒い何かがぶつかった。
襲ってきたのは悪霊か、そう思う暇もなく、火霊の脇をぬけて黒い手が伸びてくる。
後ろに飛びずさってよけながら、吉敷は驚愕に声をあげた。
「なっ……!」
目の前の悪霊は、源太と瓜二つの姿を取っていた。

「ふぅ、まったくチャチな手を使ってくれる。おーい、吉敷、レオナー!どこじゃー?」
源太は闇雲に歩き回りながら、二人の名を呼んだ。
こうして歩き回ったところで敵の手中、どうにかなるとは源太自身も思っちゃいない。
だが、大人しく座っていたところで結果は同じだ。なら、少しでも変化のあるほうに賭けたかった。
「吉敷ー!返事をせぇっ」
源太の声が反響し、暗闇のあちこちで木霊する。と、その一つへ答えるかのように、囁きがした。
注意していなければ聞き逃してしまうほどの小さな声で、しかも弱々しい。
「……兄貴……」
小さいなれど源太にとっては聞き覚えのある、声だった。
「ん?吉敷か、何処におるんじゃ」
手探りで闇をかき分けながら、声のしたと思わしき方向へ歩いてゆく。
伸ばした手の先端が、何かに触れた。
「吉敷?吉敷か?」
触れた何かをツンツンと突っつくと先ほどの声が応える。
「兄貴……ここに、いたのか」
触れた何かを、がっしりと掴み、源太は笑顔で囁きかけた。
「おぅ、お前も無事で何よりじゃ。っと!」
途端に勢いよく何かが胸に飛び込んできて、何事かと見下ろしてみれば。
源太の胸にしがみついているのは、まごうことなき愛しき弟、吉敷の姿であった。
「んん、どうした吉敷。お前、暗闇恐怖症だったんか?」
顎をすくいあげて上を向かせてやると、なんと顔を真っ青にして涙ぐんでいる。
「兄貴、俺……兄貴と離ればなれになって……すごく、心配で」
普段と違って可愛らしいことを言うではないか。
吉敷は目に涙を溜め、もう一度しっかりと源太の胸に抱きついてきた。
聞き取れぬほどの小声で、囁くように呟く。
「……無事で、良かった……」
密着しているだけでも嬉しいというのに、ましてや、吉敷のほうから抱きついてくるなど。
天変地異が起こってもありえない出来事に、源太はもう、スケベ笑いが止まらない。
だらしない顔で馬鹿笑いし、抱きついて離れない弟の身体を強く抱きしめた。
「ははは、心配性じゃのぅ。これしきの闇で、俺がどうにかなるとでも思ったか?」
などと言いながら、助平な手は吉敷の股間をゆっくりとまさぐる。
対して吉敷は、いつものように邪険に払いのけたりせず、うっとりと身を委ねてきた。
そればかりではない。そろりと降ろした吉敷の手が、源太のナニを服の上から撫であげる。
「よ、吉敷……」
ごくり、と生唾を飲み込み、源太は尋ねる。
「お前も、その気に」
すると腕の中の弟は潤んだ瞳で源太を見上げ、ぽつりと呟いた。
「俺……兄貴になら、何をされてもいい」
こんな時に、こんなことを言い出すなんて。およそ普段の吉敷らしくもない。
理性では危険の鐘が鳴り響き、だが源太はうるさそうに頭を左右に振って、鐘の音を振り払う。
たとえ妙でも偽物でも構うものか。この吉敷は本物だ。俺が決めた、今決めた。
「吉敷ッ!」
野獣の如し勢いで弟に襲いかかると、床へ押し倒す。妙な感覚があった。
堅い床ではなく、柔らかい絨毯の上に寝転がったような不思議な感覚が掌に伝わる。
だが、それすらも源太を現実に引き戻してくれるほどの衝撃ではなく、彼は吉敷の唇に吸いついた。

闇の中をレオナもまた、彷徨っていた。
彼は今、戦っていた。
向かってくる黒い影には錫杖を突き入れ、見えぬ敵へ叫んだ。
この悪霊を使役しているであろう悪霊遣いへ向けて。
「実体があるなんて悪霊、初めて見たよ!」
レオナの周りには友達――死霊が召還され、黒い影を片っ端からなぎ倒す。
倒しても倒しても、悪霊は次々と襲いかかってくる。
しかし動きは単調且つ単純で、この程度の動きなら死霊を法螺貝で指示するまでもない。
錫杖は面白いように悪霊に当たり、打ち据えられた黒い影は、くなくなと崩れ落ちた。
「でも、おかげで倒しやすくなってるけどね!」
実体があるのであれば、何も術者に乗り移るといった手間をかけるまでもなかろう。
放たれる悪霊を全て打ち倒してしまえばよい。向こうは手数がなくなるはずだ。
問題は、先に疲れて倒れるのがレオナなのか、それとも相手なのかという点だけで。
「皆、戻っていいよ。レオナだけで充分対処できそうだから」
そこは勿論、レオナのこと。何も考えていないわけじゃない。消耗戦は御免だ。
ぱちん、と指を鳴らすと、死霊達は死後の世界へと戻ってゆく。
不意に声がした。
「良いのか……死霊を消してしまって」
低く、獣の唸りを思わせる声が。
何処から聞こえているのか、上下左右も判らぬ闇の中、方向も見当がつかない。
声は直接、レオナの脳裏に響いているようでもあった。
「あなたの攻撃は単純だからね。レオナ一人で充分だよ」
言ってる側から這い寄ってきた悪霊に、一発蹴りを入れる。
大きく仰け反った喉元に錫杖を突き入れると、影は口から白い飛沫を飛ばして昏倒した。
声がまた、聞こえた。先ほどよりも大きな声が、レオナの耳元に届く。
「……その悪霊……何故、実体があるのか……考えなかったのか?」
近さに驚き、レオナは後ろに飛び退いた。誰も居ない。目の前には闇が広がるだけだ。
「……どういう意味?」
足下に崩れる影へ目をやり、レオナはハッとなる。
「もしかして……!」
黒い影を抱き起こす。口から血が流れている。それに、抱き上げたときに体温を感じた。
「これ……人なの!?」
目も鼻もない、のっぺりとした黒い顔に、口だけがぽっかりと空洞を開いている。
そこから流れる血は赤く、まさに生身の人間である証拠とも言えた。
「……そうだ……悪霊とは……生身の者に取り憑いてこそ、真価を発する」
声の主はどこか得意げでもあり、レオナの神経を逆撫でする。
「……俺の悪霊は、九鬼とは違う」
だからレオナは言ってやった。
「そうだね、あの人以下だね、あなたの悪霊は!」
暗闇で笑っているであろう、卑怯者に大声で怒鳴ってやる。
「寄生主がいなければ敵に攻撃も出来ないなんて、それでも悪霊なの?」
怒るでもなく、返事の代わりに掠れた笑いが闇に響く。
笑い声が止んだ後、再びレオナの脳に声が囁きかけてよこしてきた。
「だが……その宿主は、この国の民だ。お前は罪なき民ごと、悪霊を滅するつもりか?」
「卑怯者!」
口の中で罵り、レオナは錫杖を構え直す。
「元々気絶狙いで倒しているだけだし、そんな脅し、レオナには効かないよ!」
と言ってみたものの、足下に蹲っている人物の容態は気にかかる。
さっき、思いっきり喉元を突いてしまった……大丈夫だろうか?


相手の出ない携帯電話を一瞥し、九十九は電源を切った。
長門日源太と、どうしても今日中に連絡を取りたかったのだが――
家にもかけたが、彼は出なかった。となると、今は仕事の真っ最中か。
源太が引き受けた依頼の内容は、九十九も聞いている。確か悪霊祓いだったはず。
屋敷全体が心霊現象に見舞われており、悪霊に家を乗っ取られたという話であった。
依頼主は、これまでに二度も申請を送ってきている。それだけに、緊急を要する依頼だ。
悪霊祓いは源太の十八番だ。彼は札も霊具も、ほとんど必要としない。
霊力任せに、どんな強い地場を持った霊でも吹き飛ばす。高い霊力を誇る源太ならではだ。
今回の悪霊も強そうな相手だが、源太に任せておけば安心だろう。
源太と共に行動しているという彼の弟が、足さえ引っ張らなければ。
長門日吉敷のことを、九十九はよく知らない。源太の弟として顔合わせをした程度だ。
ただ、新米であるということと、源太が弟を溺愛している、というのは知っていた。
端から見ていて異常だと思えるほど、源太が吉敷を語る口調には熱がこもっていた。
仲がよい――そんな普通の兄弟愛ではない。それ以上のものを感じる。
まぁ、源太が弟を溺愛していようがどうしようが、それは源太の勝手である。
九十九が心配なのは、溺愛された弟が源太の邪魔をしていないか。それだけであった。
「見にいってみるか……」
誰に言うともなく呟き、九十九は歩き出す。源太の依頼先も彼は知っていた。
終わる頃合いを見計らって、出てきたところを捕まえるとしよう。
彼は驚くかもしれないが、けして迷惑がったりはしないだろう。
源太と南樹と自分だけは猶神流の信条を守る霊媒師であると、九十九は思っている。
昔は依頼主を選りわけたり、報酬の差で他所へ回すなど、考えられない事であった。
それが、いつから差別をするようになってしまったのか。
いくら仕事が多いとはいえ。依頼の量に対して、霊媒師の数が少ないからと言えど。
貧乏な者の依頼を蹴るなど、猶神流の名が廃る。
口には出さないが、南樹も源太も同じ事を思っているはずだ。
狐憑きの仕事が無事に終わったら、大婆様へ直訴してみよう。
そんなことを考えながら小宮家の前まで来て、九十九はオヤ?と足を止めた。
屋敷の前に、不審な女性を見たからであった。
最初は誰かと待ち合わせているのかと思ったが、そうではない。
ちらちらと屋敷に目を向けては、両手を胸の前に合わせて祈るような仕草をする。
明らかに屋敷へ用があるのだ。
それにしては物陰から様子を伺うなど、怪しいこと、この上ない。
声をかけてみようか、どうしようか。
九十九も迷いながら、ひとまず顔でも拝んでやろうと、彼女の正面に回ってみた。
正面へ回って相手を見た途端、彼の脳裏に一つの名前が浮かび上がる。

この人は――確か、苑田家の一人娘?

そうだ。間違いない。苑田の娘、小夜子だ。
透き通るほど白い肌に、折れそうなほど細い手足。
見間違えるものか。この一帯で彼女ほど病的に美しい少女を、九十九は他に知らない。
大婆様の処の三人娘も美しいが、小夜子の美しさは、それとはまた異なる。
三人娘が大輪の花だとすれば、小夜子は道ばたに咲く野草の、ひっそりとした美しさだ。
一夜にして咲き、萎れてしまう花のたおやかさを秘めていた。
しかし、その小夜子が何故、小宮の屋敷を見守っているのか?
じっと見つめていると、やがて向こうも九十九の視線に気づいたようであった。
無礼な、と怒るでもなく、そそくさと立ち去るでもなく、小夜子は見つめ返してくる。
吸い込まれそうなほど黒く、迷いのない瞳に、九十九はいつしか声をかけていた。
「……あの。長門日源太に御用があるのですか?」
何故、源太の名前を出したのか。自分でも判らない。
だが用があるとすれば小宮ではなく長門日のほうにあると、九十九の本能は告げていた。
すると小夜子は小さく首を振り、鈴の音を想わせる声色で答えた。
「いえ。吉敷様のお姿を、お見かけして。後をついてきたのでございます」と。

  
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