蝉が鳴いている。
うだるような暑さの中、道場では数人の学生が集まって、とりとめのない雑談に興じていた。
「哲平ちゃん、昨日のニュース見たァ?」
「昨日のニュースですか?」
「そうよォ、また暴力軍団が、この辺に出たっていうじゃない?怖いわねェ」
「警察がなんとかしてくれますよ」
「その警察がアテになれば、もちっと安心して暮らせるんだけどねェ〜。あぁん、帰り道が怖いわッ」
くねりとしなを作られて、心配性の先輩に
七尾さんなら夜道で一人だろうと大丈夫、襲いかかった悪漢だって逃げていくさ。
大学の先輩にして道場でも先輩の
おまけに厚化粧。近くに寄られるだけで、化粧の香りがプンプン漂ってくる。
彼が先ほどから口にしている暴力軍団とは、ここアジニアに最近出現した連中だ。
奇抜なファッションが目印で、善良な一般人から金を巻き上げたり、女性を何処かへ連れ去ろうとする犯罪のオンパレードだ。
彼らは『クヴェラ』と名乗り、今じゃ夜に繁華街へ繰り出そうという勇気のある住民は少ない。
組織単位での犯罪は、これまで殆どなかったせいか、警察の対応も後手に回っている。
事実上、野放しと言ってもいい。
警察が根城を探しているといった報道を最後に、続報は聞かない。取り締まりが行われているのかどうかも怪しい。
そのクヴェラが繁華街から住宅街まで移動してきたとあっては、鬼島も心穏やかではいられない。
だが眼の前の七尾を見て、彼ならクヴェラのチンピラ如き、倒してくれるんじゃないかといった期待があった。
「七尾さんは強いから大丈夫ですよ」
笑顔で太鼓判を押す鬼島に、ふてくされたように七尾は唇を突き出す。
「うんッ、もォ、哲平ちゃん アタシが怖がってるんだから一緒に帰りましょうぐらい言ってもいいじゃないのサ」
「いや、だから、七尾さんの迫力ならクヴェラだって尻尾撒いて逃げますって」
「まぁッ、酷いワ哲平ちゃん!アタシがいつ、あいつらみたいに凶暴なマネしたっていうのヨ」
すかさず横合いから哲平の友人、菱山が口を挟む。
「七尾さんは存在そのものが歩く目の障害だから」
「ぬわんですってぇ!こら、ちょっと待ちなさい二人ともッ」
暑いながらも、追いかけっこが始まった。
ひとしきり、ふざけあった後。
蝉の鳴き声をBGMに、再び雑談へと戻る。
「しっかし暑いなー」
手でパタパタ仰ぐ四国に、後輩の手塚が相槌を打つ。
「ですネ。暑いと変なのが出てきて大変ですよネ。クヴェラだけでも大変だってのに、知ってます?四国先輩」
「何がよ?」
「最近ネットで知ったンですけどネ、ユニオンとかいうチームがクヴェラと対立してるんですってよ」
「あッ、それ俺も聞いたことある!14chで話題になってたよなー確か」と割り込んできたのは菱山で、ネット情報を披露する。
それによると、なんでも日々無体を働くクヴェラと真っ向戦う組織が現れたというではないか。
彼らは『ユニオン』と名乗り、リミテッドギアと呼ばれる鎧を身にまとっていたとの目撃情報もあった。
「待って!リミテッドギアっていやぁ、軍の機密情報じゃないの!?」
驚く七尾に、皆も驚いて彼を見やる。
『軍』とはアスラーダ、ここアジニアの統治組織を指している。
クヴェラが現れるまで犯罪が殆ど発生しなかったのも、全て彼らの統治力の賜物だ。
しかし今は貴族領に引っ込んで、一般領の混乱において沈黙を貫いている。
「軍機密なんて、どうして七尾さんが知っているんスか?」
怪訝に眉をひそめる四国の隣で、鬼島も突っ込んだ。
「七尾さんはリミテッドギアについて、何か知っているんですか?」
七尾は口の中でモゴモゴ呟いていたが、ややあって出てきたのは、質問と掠りもしない内容であった。
「どうでもいいけど荒事は全部スラム領でやってほしいわよネ、アタシらを巻き込まないでほしいワ」
「スラムかぁ……ネットやニュースではよく見るけど、行ったことないんだよな。なぁ鬼島?」
菱山に促されて、鬼島も頷く。
スラム領とはゲートを挟んだ向こうにある、貧困層が住む区域だ。
ネットの噂では、ここにクヴェラの根城があるんじゃないかと言われているが、真相は定かではない。
ゲートを通過するには通行許可証が必要だ。
一般領から貴族領へ渡るにもゲートを通過せねばならず、また、この通行証が、やたら馬鹿高い。
さしたる用事もないのに通行証を購入する酔狂な住民などおらず、従って三つの領は、それぞれ独立した区域になっていた。
「ねぇねぇ、もし、もしもよ哲平ちゃん。もし哲平ちゃんがクヴェラに襲われたら、哲平ちゃんはどう対処するッ?」
突拍子もない話題を七尾に振られ、鬼島は考える。
自分がクヴェラに襲われたら、だって?
「そうですね……相手が危害を加えないようでしたら、逃げます」
「なんでだよ!?危害を加えてこないんだったら、逃げる必要ねーじゃんっ」
四国に突っ込まれ、飄々と言い返した。
「狂った奴らには近づかないのが一番だと思います」
暴力軍団などと評される面倒な連中なのだ。関わらないに越したことはない。
ならば、連中が危害を加えてきたら、どうするか。
鬼島は胸元を探り、携帯電話があるのを確かめる。
これがあれば、いつでも七尾と連絡が取れる。いざとなったら彼を呼び出して、倒してもらおう。
七尾は鬼島の習うグローブナー体術の黒帯である。それに見た目のインパクトもハンパではない。
「こうやって一応護身術を学んでますけど、いざって時に動けそうなのは、この中じゃ七尾さんぐらいですよね」
ちらっと七尾を見上げて、手塚が持ち上げる。
傍らの菱山も「そうそ、チンピラと戦うのは警察に任せて、一路脱兎すんのが一番っしょ。怪我したら馬鹿ばかしいし」と締めに入り、その日の訓練は終わりとなった。
だらけた調子で始まった夏の武術訓練が終わり、鬼島は家へ帰る。
家につくと、玄関先で妹と出くわした。
友達らしき女子も一緒だ。
鬼島は、どうも、などと冴えない挨拶をして、さっさと二階へ駆け上がる。
「ちょっとーお兄ちゃん?んもぅ、挨拶ぐらいできないの、大学生にもなって!」
妹の怒鳴り声が階下で響き、友達が何か言うのも聴こえた。
「めぐちゃん、今のお兄さん?ちょっとかっこよさげ〜」
「ハァ?格好良くなんかないよー。どー見てもダサイし、体育会系だし!」
辛辣な妹評価にも、友達は首を振って持論を曲げない。
「それ、めぐちゃんは兄妹だからだよ。兄妹じゃなかったら、格好いいって思うって」
「へー、トモちゃんって理想低いんだー。いいから早く二階行こっ」
キャアキャアと、二つの甲高い声が隣の部屋に消えるのを待ってから、哲平は部屋を抜け出した。
汗をシャワーで簡単に落とした後、着替えて外へ出る。
真夏日和だ。直射に照りつけてくる太陽の下を、ぶらぶら歩いた。
どこへ行くあてなどなかったが、隣のキャンキャン声に耐えられるほど鬼島は寛大じゃない。
家にいるよりは、外に出たほうがマシだと考えた。
「……めてください」
ふと、小さな、だが拒否を含む女の声がした気がして、鬼島は周囲を見渡す。
工場裏、細道を抜けた先だ。それとなく見に行って、すぐに見に行ったことを後悔した。
「よぉー、そうつれなくすんじゃねぇよ。この二本角のユニフォーム知らないなんて言わないだろぉな?」
二本角の生えた鬼の絵が描かれたジャンパーを羽織ったモヒカン刈りの男が、女性に迫っている。
女性は壁を背に立っていて、眼の前の男を突き飛ばしでもしない限り、逃げ道はなさそうだ。
「知りません。わたし、急いでいるんです。前をどいてください」
女性は気丈にも言い返し、男の脇を抜けようとするが、男に行く手を阻まれる。
「急いでるって、どこへ?この暑い中どんな用事なのかなー。つきあっちゃったりしてやってもいいんだけどよォ」
「結構です。知らない人と一緒に行く場所では、ありませんから」
少し近づくと、女性の顔が見て取れる。
黒髪を長く伸ばし、今は眉を吊り上げて怒っているけれど、普段ならば垂れ目で大人しそうな風貌だ。
「じゃあ名刺交換しよッか!これでもう、俺とアンタは見知らぬ他人同士じゃねーよなぁ」
「親しい人と一緒に行くならいいですけれど、あなたとは親しくありません。だから駄目です!」
どこまでも強気な姿勢で突っぱねる女性に鬼島がヤキモキしていると、不意にモヒカンが振り返った。
「おい!何見てやがんだよ、ミセモンじゃねーぞ!?」
しまった、近づきすぎたか。地面に落ちる影で、気づかれてしまったようだ。
鬼島は、その場に棒立ちとなり、男に嘲笑われる。
「ヘッ。おじけづいたのかよ。まぁ〜そうだよなぁ、俺達クヴェラにたてつこうなんてやつぁ、一般領にゃいねーよなぁ」
クヴェラ。
その一言で、何か言い返そうと思った鬼島の気力は挫けてしまう。
奴等が徘徊するのは、繁華街じゃなかったのか?
いや、道場で七尾が言っていたじゃないか。最近は住宅街にも出没していると。
――どうする?
相手は一人、武器らしき物も所持していない。
だが、一人で勝てるのか。武術を学び始めたばかりの、白帯の自分に。
携帯電話を取り出してかけるのと、男が攻撃してくる速さを考えて、鬼島は目の前が暗くなる。
駄目だ。電話をかける前に、やられる未来しか見えない。
「けっ。ギャラリーがいるけど、気にしないで続けようぜ姉ちゃん」
「近寄らないで!」
再び壁際に追い詰められて、女性が今にもキスされそうになっているのを見た瞬間、鬼島の中で何かが弾けた。
男の脇を抜けると女性の腕を掴んで一気に走り出そうとしたのだが、直後、背中に鈍い衝撃が走って、もんどりうつ。
振り返ることも立ち上がることもできないまま、次なる衝撃が鬼島の後頭部をガツンと襲った。
額をつたって、生暖かいものが流れてくる。これは、血か?
それでも起きあがろうとする鬼島の頭を男の靴底が踏みつけて、身動きが取れなくなった。
すぐ近くで、あの女性の叫んでいる声が聞こえる。
「もうやめて、やめてください!つきあうから、つきあいますからッ」
「最初っから大人しく従えばいいんだよッ。おかげで靴底が汚れっちまったぜぇー、どうしてくれるんだぁ?ネーチャンッ」
「ご……ごめんなさい」
「ごめんじゃすまねーなァ。綺麗にしてもらおうか!ネーチャンのおくちでなぁッ」
「えっ……?」
「舐めろっつッてんだよ!俺の靴底を、おねーちゃんの舌でベロベロとなぁッ!」
――蝉が鳴いている。
鬼島は薄れゆく意識で、道場に入門したての頃を思い返す。
記憶の中で、師匠と向かい合う。師匠は柔らかい、子供を諭すような声でこう言っていた。
「護身術を使うコツを教えてあげよう。それはな、逃げないことだ。逃げ腰になっていちゃあ、当たるものも当たらない」
そうだ。背を向けて逃げたのは失敗だった。
戦わなきゃ逃げられないというのなら、戦うしかない。
鬼島が起き上がるのを見て、男も懐からチェーンを取り出して身構える。
「寝てろよ、ギャラリーはよォ。オメーの出番はもう終わったんだよ!」
威嚇する男など見もせずに、鬼島は口の中で呟く。
「……が近づいたら……をすくって転倒させる……」
「あァン?何ブツブツ独り言」と、不用意にも近づいてきた男の足を掴んで引きずり倒した。
「足をすくって転倒させる!!」
「うおぁっ!?」
派手な音と共に転んだ男の股ぐらを、容赦なく蹴りつける。
護身術の域を出た攻撃であったが、鬼島は、お構いなしに奴の股間を蹴り続けた。
悪いのはこいつだ、これは正当防衛だ!
「も……もうやめて、大丈夫!もう気絶してます、それ以上やったら潰れてしまいますっ!」
誰かの手に掴みかかられて、ようやく鬼島は我を取り戻す。
「な、何が潰れるって……?」
「あっ」と小さく呟いて、女性が頬を真っ赤に染めあげる。
まだ心臓はバクバクいっていたが、やっと話ができるまでには鬼島も落ち着いた。
「喧嘩したのなんて初めてだ。ははっ……」
「強かったです。それに助けていただいて、ありがとうございます」
「いや……ああいう場合は、やっぱり助けないと」
「そういうこと、言えても実際できない人って多いと思いますよ」
「そ、そうですか?」
面と向かって褒められると照れる。
改めて見ても可愛い女性だ。見知らぬ男にナンパされていたのにも頷ける。
「あの、充分なお礼もできなくて申し訳ないのですが、そろそろ予定の場所に行かなくてはなりませんので」
断りを入れてきた彼女に、鬼島も頭を下げる。
「い、いえ。お気遣いなく、じゃなくて、お気をつけていってらっしゃい……です、はい」
「ふふっ。ありがとうございます、それでは」
女性も軽く会釈し、どこかへ歩き去っていく背中を見送った。
また襲われないといいが、送っていってあげるなどというのは些か恩着せがましいようにも感じられて、鬼島は躊躇する。
気がつくと、じっとり手が汗ばんでいる。
地面に転がってる男が、いつ息を吹き返すかも判らない。鬼島は早足で、その場を後にした。
しかし――クヴェラは本当に、住宅街にも侵入していた。
このことを、警察に知らせたほうがいいのだろうか。
延々悩んでいたせいで、鬼島は帰るチャンスを失った。
地面に落ちる影にハッとなって顔を上げると、真正面に立ちふさがる男と目があった。
「あぁー、きみきみ。先ほどクヴェラのチンピラをのした、きみ。単刀直入に言おう。君が欲しい!私は先ほどのファイトを一部始終逃すことなく見ていたわけだが、見知らぬ女性を助けるために単身向かっていく、きみ!頭から血だるまになりながらも、チンピラのキンタマに蹴りを入れることを忘れない、きみ!ナイスファイト、ファインプレイ!!私は、きみの姿に現代っ子が忘れて久しい熱い魂を見たッ!」
一気にまくしたてられて、ポカンとなる鬼島の前に名刺が差し出される。
「申し遅れたが、私はこういうものだ。けして怪しい者ではない」
名刺には、『アスラーダ管理局人事部長 獅子塚栄一郎』と書かれていた。
名刺に目をやってから、鬼島は男をジロジロと観察する。
このクソ暑い中、黒の背広を着こなし、ネクタイまで締めている。
前髪を後ろに流したオールバックも、髪の毛一本乱れることなくピッチリ決まっている。
仄かに漂う香りは、男がつけている香水だろうか?
七尾とタメをはる巨体だ。やたら威圧感のある顔つきで、ここらで見た覚えはない。
否、名刺にも書いてあったではないか、アスラーダ管理局人事部長だと。
彼は一般領の人間じゃない。貴族領の住民であり、アスラーダの関係者だ!
「軍の方が、俺に何の用ですか……?」
怯える鬼島は肩をがっしりと掴まれて、有無を言わせず車に乗り込まされる。
これまでの人生で一度も見たことのない豪華な内装で驚いている間に、車は鬼島と獅子塚を乗せて走り出した。
-つづく-