もう、誰も好きにならない。
この誓いを死ぬまで貫き通すつもりでいたし、これまでは、ずっと一人で生きてこられた。
なのに今期で入ってきた、あの子の成長した姿を見た瞬間、ジャンギは彼に首っ丈となってしまった。
アーシスに生きる大人は全員、原田正晃とは面識がなくとも名前だけは知っていよう。
なにせ彼は、原田道恵が外の世界で拾ってきた赤ん坊だったのだから。
噂は町中に広まり、しかし道恵の願いにより見物は禁止されて、他の子と同じ扱いをすると決めた。
十七年前の話だ。
その頃ジャンギは、まだ見習いであった。
まさか、あの時の赤子が自分の教え子になるとは、そして自分が教官をやる羽目になるとは。
おまけに、その子に恋心を抱いてしまうなんてことは、見習い時代の自分には想像もつかないだろう。
否、引退した前後の自分でさえも――
目覚めて一番最初に視界に入ったのは、四角い灯りだった。
「――はっ!?えっ!?」と叫んで飛び起きたジャンギへ誰かが声をかけてくる。
「あぁ……よかった。ジャンギさん、意識が戻ったんですね」
声をかけてきたのは原田だが、おかしな格好をしている。
ペラッペラに薄い布切れを身体に巻いていた。
大五郎といったか、あの大男と似たような装いだ。
立ち上がって、自分も同じ服を着ていると確認したジャンギは部屋を見渡した。
ここは何処だ。
全く見覚えがない。
四方を砂壁に囲まれており、床からは草の香りが匂いたつ。
天井に輝く灯りは四角いシェードで覆われていた。
先ほどまで布団の上に寝かされていたようだが、原田が運んだのだろうか?
「ジャンギさん、入口で倒れていたんですよ……覚えていませんか」
建物の入口で倒れていたジャンギを、この部屋まで運んだのは通りすがりの男性だと原田は言う。
ここは何処かも、その男性が教えてくれた。
温泉宿というのだそうだ。
原田が知らず握りしめていた紙に今いる部屋の番号が記されていた為、ここまで運び込まれた。
「温泉……砂風呂ではなく?」
混乱する頭を抑え、ジャンギは譫言のように呟く。
「砂風呂?」と原田は首を傾げ、すぐ真横に振って否定した。
「いえ、確かに温泉宿と言っていました。俺達は今日ここに泊まれるそうです。この紙があったから」
原田がグシャグシャになった紙を見せてくる。
そこには『わくわく温泉郷 一泊サービス券』と書かれていた。
「一泊サービスと言われても、な……明日もスクールがあるんだが」
「俺も、そう思って帰り道を調べたんですが、現在地が何処なのか、さっぱりわからなくて」
困惑の下がり眉で原田が言う。
外に出て歩き回ってみたのだが、見覚えのない景色が広がるばかりで怖くなって引き返した。
引き返したのは賢明だ。
知らない場所で迷子になりようもんなら、今度は宿まで戻ってこられなくなる。
「仕方ない。スクールには明日連絡を入れるとして、今日は此処に泊まっていくか」
今度は「え!?」と原田が驚く番で、凝視されたジャンギは繰り返す。
「これが幻覚か現実かを見極めるにも、それから帰り道を探すにも、念入りな探索が必要だ」
驚愕の眼差しは瞬く間に尊敬へと切り替わり、原田には大絶賛された。
「さすがジャンギさん……!現役時代に培った知識ですね。頼りにしています」
探索は自由騎士なら基本中の基本だ。
とはいえ、原田に頼られるのは素直に嬉しい。
「何が起きるか判らないから、動きやすい格好に戻しておこう」とジャンギは手近なタンスを開いてみたが、今着ているのと同じ服が何枚もあるだけで、本来の普段着が見当たらない。
原田も「俺も気がついたら、この格好になっていました。気を失っている間に、誰かが着替えさせたんでしょうか」と囁いて、ぶるっと身体を震わせる。
何者かが原田を裸に剥いて身体をベタベタ触って着替えさせたんだと考えるとジャンギも腸が煮えくり返ってくるのだが、今は見えぬ誰かに腹を立てている場合ではない。
「仕方ないな……足元がスースーして落ち着かないんだが、この格好で行くか」
改めて仕切り直し、薄いドアを抜けて廊下へ出る。
まっすぐ一本道を歩くうちに視界が開けた。
二人以外にも客はいるようで、同じ服装の人々が売り物と思わしき品の並ぶ店頭に群がったり、長椅子に腰かけて談笑している。
「これは、なんとも開放的な宿だね。屋内なのに露店が出ているのか」
奥にも廊下が続いており、そちらは天井から『この先、露天風呂』との看板が吊り下がっていた。
原田は店頭を、じっと眺めている。
「どうしたんだ?」と水を誘ってやると、原田は「祭りみたいです」と小声で囁いた。
「昔、小島たちと行った祭りにも、ああいう出店がありました」
「あぁ、アーシスの建町祭か。最近はご無沙汰だが……」
アーシスの建町祭は原田が十歳を過ぎた辺りで、パタッと開催されなくなってしまった。
それまでは毎年やっていたような記憶なのだが、小耳に挟んだ噂によると現役自由騎士の人口減少が原因だとか何だとか。
「何か欲しいものでも?」と尋ねたら、原田は首をブンブン真横に振って「い、いえ!ありません」と否定してきたが、なおも横目で眺めているあたり未練タラタラだ。
彼が眺めていたのは、棒の刺さった赤い球だ。
買い求めた人々がペロペロ舐めているのを見るに、あれは食べ物らしい。
あんな食べ物はアーシスの何処にも売っていない。
すると、ここはアーシスではない他の町――なのか?
いや、しかし、どうやって一体、何者が一瞬で移動させたというのだ。
それよりは幻覚の可能性が高い。
食べ物は危険だ。毒を仕込まれるかもしれない。
そう思うのだが、丸い球を舐める人々から原田が全く視線を離さないもんだから、ジャンギは先に根負けた。
「一本下さい」と指さし買い物するジャンギに、店員が「りんご飴一つお買い上げですね、ありがとうございます!」と元気よく応える。
自分で手に持ったジャンギの第一感想は結構ずっしりしているなぁ、であった。
小さな球に見えるのに、中身が詰まっているのであろうか。
飴ならアーシスにもあるが、棒を刺したりしない。紙で包むか袋に入れるのが主流だ。
「ほら、原田くん。食べてごらん」
ぽぉっと一連の買い物を眺めていた原田は、飴を差し出されるや否や、首筋を紅潮させて上目遣いに尋ねてくる。
「あ……ジャ、ジャンギさんも一緒に食べませんか?」
「ん?あぁ、いいとも」
ジャンギ自身は食べる気なんぞ更々なかったのだが、原田が一緒に食べたいというなら食べざるをえまい。
今日は一日、彼を独り占めできるのだ。
原田が望むことは何でもしてやりたいし、一緒に露天風呂とやらを調べて、あわよくば一緒に入浴できたら最高だ。
露天が風呂と、どう繋がってくるのかは判らないが、風呂には違いあるまい。
好きだと告白して以降も自身が多忙故、原田を砂風呂に誘うことすらままならなかったというのに、なんという天から降ってわいたチャンス。
砂風呂はアーシスでは唯一と呼べる大人の社交場であるが、今回は関係ないので説明を割愛しておく。
ひとまず風呂は置いといて、今は飴だ。飴を食べなければ。
二つに割ろうと飴を指で摘まんでみたら、ベタベタする感触がジャンギを襲う。
おまけに何で出来ているのか猛烈硬い。とても二つに割れたもんじゃない。
「あ、あの……ああいう食べ方、するみたいですよ」と原田がジャンギの袖を引っ張ってきて、指さす方向を振り返れば、ラブラブカップルらしき二人組が飴を交互に舐めあっているのが見えた。
人前だというのに全く憚らない辺り、さすがはカップルと言えよう。
あれをやりたいのか。いいだろう、やってやろうじゃないか。
だが、ここでは駄目だ。
人目につきすぎる。
いくら原田の望みをかなえてやりたいと思っていても、そこは良識ある大人として遠慮したい。
ジャンギは原田の手を引いて、人目につかない通路の奥に引っ込んだ。
ベタベタする指を舐めてみたら、予想以上に甘い味が口の中に広がる。
「甘くて、おいしいよ。舐めてみるかい?」
飴をというつもりで言ったのだが、原田は、あろうことかジャンギの指をペロリと舐めて嬉しそうに微笑んだ。
「……本当だ、砂糖よりも甘いんですね」
無意識なのか、それとも意図的なのか。
もう、どっちでもいい。
考えるのは、やめだ。
先ほどの恥ずかしいカップル食べを希望するぐらいだし、原田にだって、その気はあるはずだ。
ジャンギといちゃつきたい、という明確な意思が。
棒を歯で咥えて固定した上で、片手で力いっぱい飴を引っ張って抜き取った。
そいつを口いっぱい頬張り、ジャンギは原田の唇へ吸いつく。
口の中で甘い味が混ざり合い、シャクシャクとした食感が互いの喉越しに伝わる。
原田の腕が背中に回される感触を覚えながら、ジャンギも原田の腰に手を回して抱きしめる。
細い身体だ。筋肉など、ほとんどついていないのではあるまいか。
贅肉もないと言っていい。食生活が心配になる身体だ。
これまで、どのような生活をしていたんだろう。
道恵と莉麻が居なくなった後、何処かの家で労働していたんだとしても、所詮は子供の稼ぎだ。
ろくな食い扶持ではあるまい。
何故あの二人がいなくなった時、残された子を引き取ろうと名乗り出る大人が一人もいなかったのかをジャンギは考えた。
あの頃、自分は忙しかった。
現役自由騎士となって町を出たり入ったりしていたから、とても子供を育てる余裕がなかった。
――きっと、そうだったんだ。
皆が皆そうだから、幼い子供に手を差し伸べることもできなかった。
唇が離れて、ほぅっと熱い吐息をもらす原田の頬を手で優しく撫でてやる。
「……すっかり顔が蕩けてしまったね。だが、原田くん。まだ探索は終わっていないよ。この奥にある露天風呂を調べてみないとね」
「はい……」と小さく頷いた原田が袖を掴んでくるので、ジャンギは再び彼を抱き寄せて歩き出す。
向かうは露天風呂だ。
露天風呂とは、その名の通り天井のない野外にある風呂であった。
壁のない場所で裸になるのは大変抵抗があるのだが、周りの人々は何のためらいもなく素っ裸を晒している。
「う、うぅん……どうしようか?入ってみるか、やめておくか」
迷うジャンギと比べて、原田は「入りましょう」と思い切りがいい。
これが若さというやつか。
いや、ジャンギとて数年若ければ同じ決断を下したかもしれない。
腰を縛る紐を解いて勢いよく布を脱ぎ捨てたら、下は何もつけていなかった自分にジャンギは自分で驚いた。
道理でスースーするわけだ。
傍では原田が目を真ん丸に凝視してくるしで、猛烈恥ずかしい。
「ジャンギさん、ご立派です」
脱いだのが?それとも中身が?
尋ね返す前に一人二人と爺さんが湯をあがっていき、あっという間に原田とジャンギの二人っきりになってしまった。
まるで原田に脱ぎやすいようにと遠慮したかのような退場っぷりだ。
「なんで皆、急に出ていったんでしょう」と首を傾げる原田を促し、二人揃って素っ裸になった後は湯加減を見る。
湯の温度は共同風呂より些かぬるめで、肌に優しい熱さだ。
肩まで湯船に浸かって、ようやく落ち着いた。
「共同風呂は、よく使うんですか?」と原田に尋ねられ、ジャンギは首を振る。
「見習いだった頃、一度だけ仲間に連れられて行ったっきりだよ。実家にも風呂はあったしね」
聞けば、原田も幼い頃に行ったっきりだと言う。
幼い頃は何度か利用していたが、やがて羞恥心が芽生えて行かなくなった。
「けど俺とは、こうやって入れているじゃないか」と突っ込んでやったら、原田は、ふいっと視線を逸らして小さく答えた。
「それは……ジャンギさんだから、ですよ。知らない人とだったら入りません」
可愛いことを言うじゃないか。
ジャンギは、みたび原田を抱き寄せる。
素肌に直接触れても嫌がられないのをいいことに、首筋へ舌を這わせた。
「あ……ぅ、ジャンギ……さんっ」
力なく下がった原田の手がジャンギの太腿に触れてくるのは、そっと掴んで置きなおす。
太腿ではなく、股の間に生えた己のモノの上に。
「こうやって触っても嫌がらないってことは、君に嫌われていないと考えていいのかい」
耳元での囁きに、全身を赤く火照らせた原田が頷いた。
「嫌うなんて、ありえません。あの時……ヤフトクゥスに誘拐された時、俺を守ろうと全力で追いかけてくれた人を、嫌いになれるはずないじゃないですか」
結果的に助けたのが誰であれ、原田は恩義を感じているようだ。
だが、それだけなのか?
ジャンギを好きとする源は、助けに来てくれたから、だけなのか。
と、思っていたら原田の言葉には続きがあった。
「それに、いつも優しく指導してくださって、全然上手く戦えなくても嫌味とか言わないし、絶対に見捨てないじゃないですか。笑顔も優しいし……と、とにかくジャンギさんの指導を受けていると、俺みたいな臆病者の無能でも強くなれる、そんな勇気をもらえるんです。怪物舎の管理人がジャンギさんで良かった。他の人だったら、きっと途中で挫けていたかもしれません」
サフィアや他の大人と比べての話だろうか。
いずれにせよ、出来が悪いからと見捨てるなんてのは論外だ。
教官としてだけではない。
原田正晃は幼い頃に力添えしてやれなかった子であり、そして今は好きな相手だからこそ、大切に見守っていきたい。
「君は無能じゃないよ」
ジャンギは小さく呟き、真っ向から原田の瞳を覗き込む。
「いいえ、無能です。だって俺には秀でた能力が」と言い返す彼の首筋を撫でながら、念を押すように繰り返した。
「君はバランス型、鍛え方次第ではオールラウンドになれるタイプってだけだ。突出した能力がなくても気にしなくていい。だって、俺もバランス型なんだから」
「えっ?いや、オールラウンドっていうのはジャンギさんを指す言葉でしょう!ジャンギさんは全体的に高い能力でバランスが取れているから、俺とは比較対象にもならないです」と、なおも納得しない原田へ微笑みかける。
「俺の指導の元、鍛えれば君もオールラウンドなバランス型になれる。俺の指導を信じてくれるんだったら、この言葉も信用してくれ」
やっと言わんとする意味が理解できたのか「あ……」と呟いた原田は、ぽぉっとした視線をジャンギに向けてくる。
「……うん。君は、俺が必ず強くしてみせる。だから、これからも俺を好きでいてくれると嬉しいな」
軽くキスして抱き寄せた耳元で、原田が小さく「はい」と頷くのを耳にした――
ハッと目を開けた途端、視界を真っ暗に覆われて。
「――はっ!?えっ!?」と叫んで飛び起きたジャンギは、ロフトの天井に嫌というほど頭を打ちつける。
ここは何処だ。温泉宿ではないのか。
そうだ、思い出した。
昨夜はウィンフィルドに町中を追いかけまわされて、昔馴染みの家へ逃げ込んだのだった。
やれやれ。あんな変態ストーカーじゃなくて原田くんに追い回されるんだったら、夜通し走り回っても幸せなんだがなぁ。
尤も、原田が追いかけてきたんだったら、ジャンギだって逃げたりしない。
立ち止まって胸に飛び込んできたところを、思いっきり片手で抱きしめてやりたい。
「よーぅ、オハヨッ。昨夜は大変だったなァ。出がけに朝飯、食ってくか?」
声をかけてきた昔馴染み、今は飯屋を切り盛りする友人のガンツに振り向くと、「そうだな、久しぶりに君の美味い飯をごちそうになるとしよう」とジャンギは笑顔で頷いたのであった。