Un-known

しゅういちと二人っきりの温泉旅行!:18周年記念企画・if短編

そのチケットを手に入れた瞬間、ハルは歓喜に叫んでいた。
強く、行きたいと願った。
次の瞬間、視界が弾けて真っ白に染まった――

「マスタァァァァ!あなたのハルが、参上しましたよ!」
ガラッと勢いよく指定された数字の部屋を開けて飛び込んでみたものの、部屋には誰もいなくて思いっきり動揺する。
どういうことだ。
チケットを二度見してみたが、間違いない。
同行者の欄には、小さな文字で"しゅういち"と記されている。
マスターが来ると判ったからこそ、この温泉に行きたいと願ったのだ。
わくわくドキドキ温泉旅行☆二人っきりの蜜な時間――とは、チケットの表面に書かれた文章だ。
誰が送ってきたのかは判らない。
気がついたら、自室のベッドの上に置かれていた。
さてはイーサンあたりの悪戯かと疑ってみたが、奴の姿も、ここにはない。
全くの一人ぼっちだ。
どうやって戻ればいいのかも判らない。
だんだん心細くなってきて泣きそうな気分になった時、変化は起きた。
先ほど勢いよく開けた扉の向こうから、ひょこんと銀髪の青年が顔を出し、「もしかして、そこにいるのはハルかい?」と尋ねてきたのだ。
「マッ、マストゥアァァァァー!!!
歓喜にむせぶハルを見て、しゅういちは少々引き気味に、もう一度尋ねてくる。
「ごめん、ちょっと落ち着いてくれ。きみは俺の知っているハル、で間違いないんだよな?」
「もちろんです!あなたの存じているハルでございます!!」
飛びつきたいのを堪え、何度もハルが頷くと、ようやくしゅういちにも確認が取れたらしく、彼は部屋に入ってきて、ぐるり一面を見渡した。
「あぁ、よかった……俺一人で此処に飛ばされてきたもんだから、少し不安だったんだ」
「俺もです、マスター。しかし、どうして部屋には入らなかったんで?」
「だって、怪しすぎるじゃないか。部屋に入って罠だったら、どうするんだ」
至極まともな答えが返ってくる。
しかし罠だと疑いつつも、結局はしゅういちも部屋にやってくるしかなかった。
曰く、この部屋に到着するまで、すれ違った従業員も他の客もいなかったそうだ。
「不思議だよな。招待しておいて、誰もいないだなんて」
「さっさと温泉に入って、出ていけってことなんでしょうか」
今更ながら、ハルにも不安が押し寄せる。
だが、マスターが一緒なのだ。一人で震えているよりは、幾分不安も和らぐ。
「あ、ところで――」「あ、そうだ」
ハルとしゅういちの声が重なり、先を促されたハルはマスターに尋ねた。
「マスターは、どうしてこの温泉に行こうと考えましたんで?」
うんと頷き、しゅういちが答える。
「誰が、どうして俺を招待したのかを調べてみようと思ってね。けど調べようと思った瞬間、ここに飛ばされてしまって途方に暮れたよ」
ハルと一緒だ。
ここへ行きたいと思った直後には、ここへ到着していた。
「何なんですかね……瞬間移動するチケットだったんでしょうか」
首を傾げるハルに、今度は、しゅういちが尋ねてくる。
「ハルは、どうして此処に?」
「あ、えぇと、それは、その〜」
改めて自分の置かれた状況に気づき、ハルはガラにもなく赤面する。
今、この部屋にいるのは自分とマスターだけだ。
他の邪魔は一切入らない。
ごびりと喉を鳴らしたハルを見て、しゅういちは一歩退いた。
「言っておくが、ギルドのルールは場所を変えても適用されるからな?」
「あぁいや判っていますよ、勿論です」
警戒心を高めるマスターへ、ハルは慌てて言い繕い、ここへ来た理由を話す。
「ど、同行者にマスター、あなたの名前が書かれていたからです。怪しいんじゃないか、罠じゃないかってのは俺も考えました。けど、俺はどうしても、あなたと二人で旅行がしたかった!」
言った後、恐ろしいほどの静寂が部屋を包み込む。
またしても、マスターにはドン引きされてしまったのだろうか。
無言で押し黙るしゅういちにハルの居心地は悪くなり、ついには我慢しきれなくなってきた頃、ようやく、しゅういちがポツリと呟いた。
「……ハルは、どうして俺のことが、そんなに好きなんだ?」
「え」
「きみは、ギルドに入った直後から俺を好きだと言っていた。恋愛には興味ないと断った後でも、何度も好きだと告白してきた。それは、どうしてなんだ?いや……俺の何を気に入って、そこまで好きになったんだ」
これまで全く聞かれることのなかった質問に軽く固まった数秒後、ハルは頬を真っ赤に染めあげて怒涛の想いを吐き出していた。
「全てです!あなたの、全てが大好きです!!あなたの顔も言葉遣いも微笑みも、優しい性格も体格も!俺と違って繊細な気遣いが出来るところも、命を慮る温情が深いところも大好きです!!もう、なにからなにまで、あなたは俺の知る世界から外れて存在が眩しすぎた!!俺みたいなゴロツキにも、あなたは歓迎すると言ってくれた!生まれて初めてだったんです!俺に優しくしてくれた人は、あなたが!初めてだったんだ!!」
ややあって、再びマスターが小さく呟く。
「……そうか。俺もソルトを好きになった今なら、きみの気持ちが理解できるかもしれない。きみの愛に答えることは出来ないけれど……でも、この温泉旅行は一緒に楽しもう」
しゅういちに、愛してやまない相手に、にっこりと間近で微笑まれて、ハルは自分の魂が勢いよく飛び出して、そのまま昇天するのではないかと思った。
「この"しおり"によると――」
テーブルの上に置かれていた冊子を手に取り、しゅういちが読み上げる。
それによると、入浴前にはクローゼットの中にある"浴衣"を必ず着用すること。
風呂場にある"シャンプー"や"ボディソープ"は、勝手に使用していい。
部屋にあるポットやコップも、自由に使っていいのだそうだ。
「至れり尽くせりですね」と無難な感想をもらすハルに、しゅういちも肩をすくめる。
「自由過ぎて、気味が悪いぐらいだけどね」
ところでシャンプーとは何だと尋ねる前に、解説が入った。
「シャンプーは髪の毛を、ボディソープは体を洗う薬品だな。どれも異世界文献で読んだ記憶がある……とすると、ここは異世界なのか?」
首を傾げるマスターに、深く考えず「きっとそうですよ!」とハルも同調する。
「誰が招待主かは判りませんが、どこかで俺達を見張ってやがるんだ……」
何のために?
そこまではハルの知るところではない。
だが、招待するだけしておいて放置というのも考えにくい。
この宿には、間違いなく誰かがいるのだ。部屋のポットで湯を沸かした誰かが。
しゅういちがガパンと大きな音を立ててクローゼットを開く。
細長い布を二枚取り出して、ハルに見せてきた。然るに、これが浴衣か。
「これは、一度全部脱がないと着られそうにないな……ハル、悪いけど、ちょっと向こうを向いていてもらえるか?」
着替えを見ちゃ駄目とは、可愛い事を言うではないか。
ハルは興奮する鼻息を抑えながら、「ハイ!」と回れ右した。
どうせ今、着替えを盗み見せずとも、風呂場では全裸になるのだ。
全裸と着替え中を比較したら、絶対全裸のほうがいいに決まっている。
マスターの全裸を妄想するだけでも、ハルは全身の血が脳に集結して倒れそうになった。
もし一緒に入れたら、真正面に陣取って、上から下まで、じっくり拝んでやろう。
きめ細やかな白い肌が温泉の温かさで、ほんのり桜色に染まるのだ――
湯気で火照った頬のマスターと目が合ったら、正気でいられる自信がない。
早くもハルの下半身はフル勃起、お見苦しい昂ぶりがズボンの布を押し上げる。
「……よし、もういいぞ。それじゃ俺が先に見てくる」
えっとなって振り向くと、浴衣を纏ったしゅういちと目が合った。
「様子見してくるから、ハルは部屋で待っているんだぞ?」
もう一度えっとなり、慌ててハルは食い下がる。
なんでそう決めたのかは判らないが、マスターは自ら危険に飛び込もうとしている?
そして、ハルを部屋に置き去りにしようともしている。
「えっ、待ってください。マスターが様子見を?いや、ここは俺が偵察してきます!」
「駄目だよ、きみに何かあったら大変だ」
しゅういちには押し留められたが、何かあったら大変なのは言うまでもなくマスターのほうだ。
Oceansはマスターあっての海賊ギルドだ。
護衛もできないんじゃ、ここにきた意味がない。
「マスターこそ駄目です、駄目です。マスターに何かあったら俺も皆も……ソルトも、悲しみますよ」
ソルトと口にするだけで、ハルの胸はズキリと痛む。
ソルトのことは、嫌いじゃない。
彼がギルドに参入してきたばかりの頃は、むしろハルの中でも好感度は高かった。
だが、マスターと恋人関係になるとは想像だにしていなかった。
マスターの恋人にさえならなかったら、きっと仲良くなれた相手だろう。
友達のモンスターも、ソルトに懐いている。
悪い奴ではない。自分と好きな相手が被り、そして向こうが勝った。ただ、それだけだ。
ともあれソルトの名前を出しただけで効果てきめん、しゅういちは「判った」と素直に頷くと、改めてハルに偵察をお願いしてきた。
「それじゃ申し訳ないけど……露天風呂の偵察に行ってもらえるかい?ハル」
「合点承知です!」
言うが早いか、ハルは部屋を飛び出した。

温泉までの道のりは非常に親切で、一定区間ごとに看板が立っていた。
露天風呂とは何ぞや?とマスターに聞く手間も省けて、一目瞭然。
露天風呂とは、野外にある温泉を指していた。
空は晴天、雲一つない。あちこちから湯気が立ち上り、入らずとも暑くなってくる。
ハルは元来た廊下を走って戻ると、さっそく見たまんまを報告した。
問題なしと許可を出したマスターの答えを得て、再び温泉へとUターン。
忙しなく廊下を走り、ようやく湯舟でホッと一息ついたのであった。
――ただし、ハルだけが。
しゅういちは、ついてこなかった。
曰く、まずは温泉湯の効果を調べてほしいとの事である。
どうあっても一緒に入ってはくれないのかとハルは悲しくもなったが、それを自分から言い出してマスターに余計な警戒をされても面倒なことになる。
それに、それにだ。
温泉の湯がマスターの肌に合わない可能性が、ないこともない。
あの白くてスベスベで綺麗な肌に出来物が浮かんだりしたら、ハルはきっと一生かけても自分が許せなくなる。
幸い、ハルの肌との適応性は良好だ。
指で摘まむと多少ぬるついているように感じるが、気持ち悪いというほどじゃない。
臭いを嗅ぐと、塩っ気がした。どこかで海と繋がっているのだろうか。
それにしても、不思議な温泉宿だ。
客は自分達だけなのか、廊下にも風呂にも人っ子一人いない。
こんな客の少なさで、果たして宿として経営していけるのか。
或いは、道楽者の趣味で建てられたのかもしれない。
「はあ〜〜、あったけぇ。あいつらも入れてやりたかったなぁ」
大きく伸びをして、ハルは空を見上げる。
あいつらってのは勿論、ハルが日頃可愛がっているモンスターたちのことだ。
いつも窮屈そうに倉庫に押し込められて縮こまっている、あいつらを不憫に思わなくもない。
この温泉に入れてやったら、大喜びで泳ぎだすに違いない。
想像すると、ほっこりする。
いつか本当に、自然温泉へ連れて行ってやろうとハルは考えた。
――不意に、からりと戸が開いたので何気なく、そちらを見やり、次の瞬間、ハルの心臓は最大限にドキドキと高鳴り、ぶっ倒れるのではないかと思った。
「なななな、なんでマスターがここに!?あれっ、部屋で待っている手筈じゃあ!??」
視線の先には、しゅういちがいた。
一糸まとわぬ、いや、大事な部分はタオルで隠されているが、その他は裸なマスターが。
夢でも覗き見でも何度も見た、白くてスベスベな肌が惜しげもなく晒されている。
「むっ、むほおぉぉぉぉ!!!!」と興奮するハルに一歩引き、しゅういちは言った。
「だって、いつまで経っても戻ってこないから……心配したんだぞ?ハル。気持ちよく浸かれるんだったら、戻ってきて俺に教えてくれても良かったのに」
ちょっと調べて戻るつもりが、すっかり長居していたのだと、ハルは彼の言葉で自覚する。
それではマスターだって心配して見に来ようというものだ。申し訳ない。
「すっ、すいません!つい、気持ちが良くて……あぁぁっ、いけません!俺ッ、向こうを向いておりますので、その隙にお入りを!」
言葉が勝手に口を飛び出し、本能を無視してハルの体は反対方向へ視線を逸らす。
本音じゃ見たい、見たくてたまらないのに、嫌われたくないが故に理性が邪魔をする。
大きな体を震わせるハルに、そっと遠慮がちに触れてくる手がある。
ちらと視線だけで振り返ると間近にしゅういちがいて、心配そうにハルを見上げているのであった。
「……ハル。風呂へ一緒に入るぐらいなら、俺は何とも思わないよ。ただし、けして悪さをしないように。マナーを守らないと、宿の人達にも迷惑だからな」
さすがは、常日頃からマナーを徹底させているマスターだ。
一向に姿を見せぬ宿の人間にまで気配りするとは感服仕る。
聞くまでもないと判っていながら、ハルはあえて尋ねてみた。
「わ、悪さといいますと?」
「湯舟でボディソープやシャンプーを使わない、薬品のついたタオルを湯に沈めない。それから、泳いだり誰かに抱き着いたり洗い場を駆けまわったり飛び込むのも禁止だと、先ほどのしおりに書いてあったぞ」
真顔で答えられ、マスターは真面目だなぁと感心しつつ、ハルは再び湯舟に沈むと、改めて彼と向かい合う。
湯気に煽られて白い肌が、ほんのり桜色に染まっている辺りは予想通りなのでヨシとして、自分との距離が予想以上に近いのには驚いた。
もっと遠く離れた場所で、それ以上近づいたら船を降りるルールが発動するかと思っていたのに。
マスターと自分との距離は、少し手を伸ばせば充分抱きしめられる間隔だ。
先ほど誰かに抱き着くのは禁止と言われたばかりなので、実際には抱き着いたりしないが。
「ほ……ほわぁぁぁぁ……」
謎の奇声を発するハルを見、しゅういちが苦笑する。
「俺ばかり見ていないで、温泉自体を楽しもう。ほら、こうやって湯舟に沈んで、思いっきり足を伸ばしてごらん」
しゅういちが足を伸ばすと、湯に沈んでいたはずの胸が浮かんでくる。
白くて薄い胸だ。気持ち程度の筋肉しか、ついていない。
ただしハルの視点は筋肉など眼中にあらず、一点集中で乳首をガン見だ。
マスターの乳首。
まだ誰も、そうだ、ソルトでさえも、まだ触ったことがないはずの場所。
ピンクの乳首はツンと立って、こちらを誘惑しているかのようだ……
きゅっと摘まんだら、マスターは、どんな声をあげるのだろうか。
あん、とか、ぅん、とか喘がれたら、それだけでお腹いっぱいです、追加注文いいですか?
コネコネしてクリクリして引っ張ったりチュッと吸ったりしてみたい。
そのつどマスターが喘ぐ表情を想像し、ハルは一人で興奮する。
傍らの鼻息は次第に荒くなってきたが、しゅういちは構わず体を浮かせて、ふぅーと静かに息を吐いた。
「はぁ……気持ちいいなぁ。体の隅々にまで温かさが行きわたる」
かと思えばハルをチラリと見て、「ほら、ハルも」と促してきた。
こうなっては一人で興奮しているわけにもいかず、ハルも足を伸ばしてみる。
足を伸ばすと自然に体が浮いてきて、なるほどと思う暇もなく、今度は口に湯が入りそうになるもんだから、手を床について支える格好で体を浮かせる。
手だけで全身を支えているにしては、意外と苦ではない体勢だ。
「浮力だね」と、しゅういちに突っ込まれ、意味は分からずともハルは頷いた。
「あぁ、これは……いいですね。自分の体が船になったみたいで」
「なるほど。なかなかに詩人だね、ハル」
詩人かどうかは判らないが、マスターに褒められるのは何であれ嬉しい。
湯気のポカポカと間近にマスターがいる緊張のポカポカとで、二倍のポカポカ効果が襲ってくる。
せっかくの二人っきり、それも風呂で二人っきりの大チャンスではあるが、のぼせないよう早々に風呂をあがろうと、ゆだった脳でハルは考えた。

湯を上がり、部屋へ戻る頃にはハルの興奮も一段落つき、途中、廊下の横手にある売店に引っかかり、二人して中を覗き込む。
「やっぱり、ここにも誰もいないんだ……不用心だな、こんなんじゃ商品を取っていかれちゃうぞ」
むむぅと腕組みして唸るマスターを横目に、ハルは手近にあった置物を手に取ってみる。
頭でっかちな木彫りの人形だ。少々、顔が怖い。
珍しい品ではあるが、あえてこんなものを盗んでいく奴もいまい。
「大体、売り子がいないんじゃ、どうやって買えば――あっ」
よく見ると店の隅っこには箱が置いてあり、そこに料金を入れて下さいと書いてある。
素直に料金を入れていく客ならよいが、一般的に考えればマスターの言う通り、取られ放題になろう。
だが、それでもいいのかもしれない。ここが商売ではなく道楽で作られた場所ならば。
「あれ?こっちに登る階段があるのか」
売店をあちこち見てまわっていたしゅういちが、素っ頓狂な声をあげる。
「どこへ繋がっているんだろう……よし、探検だ!」
そればかりか勝手に登っていこうとするもんだから、ハルは慌てて彼を止めた。
ソルトじゃあるまいし、いつも用心深いマスターにしては、いやに無警戒ではないか。
「マッ、マスター、待ってください!何が潜んでいるかも判らないってのに、危険すぎます!!」
「でも、まだ誰も見つけられないのに、のんびり部屋で寝られると思うかい?」
思わぬ反論に、えっとなる暇もハルには与えられず、しゅういちが畳み込んでくる。
「寝ている間ってのは一番危ないからな……どちらが襲われても、反撃が遅れる。下手したら二人一緒にお陀仏だ。完全に安全な場所だと確認できるまで、調査は必要だろ」
誰か見つけるか、或いは誰もいないと完全に判るまで調査するべきだと諭され、ハルも渋々納得する。
彼にしてみれば、あとは寝ているマスターをハァハァ眺める至福タイムの始まりだったのであるが……
それにしても。
モンスターが側にいないというのが、ここまで心細い状況だったとは。
いや、もちろん己の腕っぷし一つでもマスター一人なら守れる自信はある。
ただし、それは相手が一人二人の人数だった場合に限りだ。
大人数で襲ってこられたら、いかな腕自慢のハルと言えど苦戦は免れない。
混戦になれば、マスターを見失う可能性だって高くなる。
マスターが目の前で殺される場面を考えただけで、足は震えて声が出なくなってしまう。
無言になったハルの手を、そっと握ってくる者がある。
確認するまでもない。しゅういちだ。
「大丈夫。俺の逃げ足は、きみが考えているよりも、ずっと速い。俺の心配は無用だ。それより、きみは自分の身を、しっかり守るんだぞ」
ハルより、ずっとずっと小柄で背も低いくせに、マスターの言葉には、どっしりした安心感がある。
男らしく凛々しい。ハルより、ずっとずっと華奢で綺麗な顔のくせして。
そういうギャップも好きだ、大好きだ。絶対に失ってはいけない相手だと思う。
だからこそ「先頭は俺がいきます。マスターは、あとからついてきてください」とハルは一気に冷静さを取り戻し、しゅういちよりも先に階段を登っていった。

心臓バクバクで階段を登っていたが、とうとう何の気配も感じないまま天辺まで登り切ってしまった。
天辺は外に繋がっており、出た瞬間「わぁ……!」という感嘆が、しゅういちの口をついて出る。
ここは売店の天井、屋根の上だ。
頭上には星空が広がっており、ハテ、さっき温泉にいた時は青空だったような気もしたのだけど、とハルは首を傾げる。
一体いつの間に昼を過ぎて夜になっていたのか。そこまで長湯した覚えもない。
ハルの疑問を飛び越して、しゅういちは手すりを掴んで身を乗り出した。
「見ろよ、ハル!あれって西十字座じゃないか?」
西十字座は秋の星座で、只今のファーストエンドは夏だから、見えるはずもない。
いや、しかし、ここはファーストエンドではない。
異世界には無知なハルでさえ、異世界の予感が、ひしひしする。
「あっちには大さそり座が!あっ、向こうには天神座も見えているじゃないか。季節全部の星座が見えるなんて、おかしな場所だなぁ……やっぱり、ここは異世界なのかな?」
それに、と空を眺めるのはやめて手すりに持たれかかりながら、話を続ける。
「さっきまで昼だったのに、もう夜になっている。時間の進みもおかしい」
ハルの勘違いではなく、先ほどまでは本当に昼だったのだ。
屋上に座り込んで二人して空を眺めながら、一息入れる。
「異世界でも、星座はファーストエンドと同じなんだな。もしかしたら異世界ってのは地上だけを指す言葉で、空は全世界共通なのかもしれないね」
しゅういちの推理に「そもそも異世界ってのは何なんでしょう?」とハルも切り返す。
異なる世界と書いて、異世界と読む。しかし、その実態は?
およそ、これまでの人生において、ハルとは無関係な場所だった。
いや、今でもだ。今こうして異世界に来ていても、これという実感がわかない。
ハルの概念では、空も陸も全部ひっくるめて一つの世界とカウントする。
空と陸で世界を切り離すなんてのは、考えたこともなかった。マスターの推理は斬新であろう。
「俺の推測で話すけど、いいかい?」と確認を取ってから、しゅういちが話し出す。
曰く、世界と世界は隣接しているのではないか。
世界は空間で遮断されており、だから行く方法さえあれば、行き来も可能である。
しかし、空はどうだろう?
空とは何なのか。
世界の一部なのか。
それとも、空は空で別の空間なのか。
「考えれば考えるほど、判らなくなってくる。空を探検した人の記録や文献ってのも、まったく見ないしね」
しゅういちは笑い、傍らのハルはというと、半分船をこいでいた。
途中から話についていけなくなっていた。
具体的には、空間で遮断がどうとかいう辺りから。
どだい、無理なのだ。無学な自分がマスターの話についていくなど。
マスターは海賊になる前、一応スクールだかアカデミーだかの所謂学校に通っていたという話だ。
本が置かれた家にもいた。マスターには学を積む機会が、いくらでもあったのだ。
生まれ落ちた町にも馴染めなかったハルとは大違いである。
故郷の記憶は思い出したくもないものばかりだ。
疎まれていた。
人外しかハルを受け入れてくれるものが、いなかった。
そうした状況下で出会ったのだ。マスターとは。
喜びのあまり、親愛と崇拝と劣情をゴチャマゼにして愛の告白をしたとしても、仕方なかろう。
マスターにしてみたら、迷惑だったかもしれないが。
もしかしたらハルが船に乗り込んできたこと自体、迷惑だったのかもしれない。
だって、一度も色よい返事をもらっていない。
なのに、マスターは、ソルトには好きだと言ったんだ……
ちらりとマスターの様子を伺うと、苦笑する顔と視線が合う。
「眠そうだね。ごめん、こんな遅くまで雑談につきあわせてしまって。そろそろ戻ろうか」
立ち上がり、ふらふらっとよろめくハルを、「大丈夫かい?」と、しゅういちが気遣ってくる。
そうだ、いつだってマスターはつかず、はなれずじゃないか。
優しくはしてくれるけど、けして好きではない距離を保って。
涙が、ぽろりとハルの頬を伝う。
ハッと息を飲み込むしゅういちの前で、彼は言った。
「マスターは、本当は俺のこと、嫌いなんじゃないですか?」
「そんなこと、ないよ。好きは好きだよ。ただし恋愛の好きではなくて、すまないけれど」
そう、しゅういちの答える声が聞こえた。

気が、した。


海鳥の声と共に自室で目覚めたハルは、それが夢だったのか現実だったのかも、はっきりせず、頭をふりふり甲板へと歩いていったのであった。


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