「ウサミッチ、今日の予定空いてる?」
出掛け、そんなふうに伊藤から声をかけられたのがきっかけで。
空いていると答えたばかりに、普段なら仕事が終われば家へ直行となるはずが飲み屋へ招待された。
編集部名義の予約席で「ハッピーハロウィン、ウェェ〜〜イ」と酒瓶を両手に抱えて騒いでいるのは誰であろう。
「ささっちんこウェーイ!」と宇佐美の横で本木が親指と小指を立てて応じたお陰で、宇佐美にも誰なのか判った。
笹川だ。へべれけに酔っ払っているから、一瞬誰だか判らなかった。
「おーう、遅いぞ二人とも!なんだ、二人だけかぁ?」
制作部の新人二人が到着した時点で席は出来上がっており、酒臭さで充満している。
「横山は、どーした?逃げたのかぁ」と酒臭い馬原に寄りかかられ、宇佐美は目を丸くしたものの。
「あっちはあっちで飲みに行っちゃいましたよ。制作は俺らだけゴチになれって横山さんが」
ぐいっと無造作に馬原を押しのけて、本木が助けてくれた。
「あざっす」と小さく礼を言う宇佐美に、本木も「酔っ払いの相手は俺にお任せってね」と笑う。
「ウサミッチー、モトキッチも俺の横に座って」と呼ばれるがままに伊藤の隣へ腰掛けてから、改めて宇佐美は尋ねた。
「ハロウィンを祝うと言っていましたけど、ここでっすか」
「そうだよ、ここでだよ!ハッピーハロウィン、Trick or Treat?」と伊藤の代わりに霧島がまくしたてて、焼鳥の乗った皿とサラダの乗った皿を突き出してくる。
「焼鳥にするか、サラダにするか、どっちがいい?あ、先に何か飲む?何がいい?」
「そんじゃハイボール、お願いします!」
気軽に本木が答え、ちらっと宇佐美を見ると「あと烏龍茶も!」と、宇佐美が何も言わないうちに頼んでくれた。
こういった店のノンアルコールは大抵、烏龍茶とコーラとジンジャーエールとオレンジジュースの四択だ。
いつも制作部の飲み会で烏龍茶ばかり頼んでいるのを覚えていたと見える。
宇佐美はペコリと頭を下げて、本木も目でお返しする。そんな二人を見比べて、馬原が伊藤の脇腹を突いてきた。
「な、だから心配しなくて大丈夫だっつったんだよ。新人が二人揃ってりゃ、お互い仲良くなるっての」
ちらりと二人を見て、伊藤も答える。
「モトキッチがウサミッチに仲良くしてくれるかってのは心配してなかったよ。ただね、横山さんが」
男二人の内緒話に「え?なになに?ホモの助が、どーかしたの」と無遠慮に霧島が突っ込んできて、ウェイウェイ一人で盛り上がっていた笹川も「それこそ杞憂ってもんだろィ。ホモの助は三宅ちゃんがマークしてっから」と混ざってきた。
「ホモの助?」と首を傾げる新人二人には、馬原がヒラヒラ手を振る。
「お前らんとこのチーフだよ。前にやらかしたんで、ずっとホモの助って呼ばれてんだ」
と言われても。そんな呼び名は今、初めて聞いた二人である。
「そういや前科があるって言ってましたよ、三宅さん。キョウジが、うちで初めて仕事した時に。横山さんの前科って何なんすか?なんか昔、ヤバイ犯罪に手を染めてたとかっすか」
ふと思い出したように本木が尋ね、馬原と霧島がニヤつく中、伊藤は慌ててフォローに入った。
「えぇっと、前に飲み会でハメを外しちゃってね……黒歴史ってやつだから、そっとしといてあげて」
「へへー、伊藤ちゃん優し〜」
ニヤニヤ笑う霧島の隣で、馬原が肩を竦める真似をする。
「あんなのハメって呼べねぇよなぁ、そのせいで一人辞めちまったんだから」
下手に隠されると余計気になるというもので、詳しく知っていそうな馬原に本木が尚も追及した。
曰く――
毎年ハロウィンでは、制作部と編集部の一部の人間が集まって飲み会を開いている。
悲劇は五年前に起きた。
べろんべろんの前後不覚になるまで泥酔した横山が、当時の新人Aくん(仮名)に「キスとハグ、どっちがいい?」と迫りまくった挙げ句、どちらも遠慮しますと逃げるAくんを抱き寄せて、無理矢理キスしてしまったのだ……!
最悪なことに、Aくんは、これが初キスであった。
初めてのキスが、むさい髭面のオッサン。しかも直接の上司。
明日から、どんな顔して会社に行けばいいのだろう。
翌日、酒の抜けた横山は会社を休んだAくんに全力でメール謝罪したが、彼は失意のあまり銀英社を去っていった。
以降、飲み会でも会社でもサブチーフの三宅が横山の行動へ目を光らせるようになったという――
「ひでぇ!」と叫んだ後、本木は「訴えればよかったのに!」と憤慨する。
俗に言うセクハラ案件だ。訴えて然るべきだと宇佐美も思う。
反面、伊藤にされたキスが脳裏に蘇り、そっと口元を押さえる。
あれも無理矢理だった。宇佐美に選択権のないキスであった。
酔うとハメを外してしまう人種というのは、どこの部署にもいるものだ。
チラッと伊藤を伺うと、モジモジ指を突き合わせて、うつむき加減に黙している。
何故、彼が横山を庇ったのかも判った。悪酔い仲間だからこその同情だ。
「もみ消されると思ったんじゃないかな?それか、訴える余裕もなかったか」と、霧島。
「うえぇ〜、俺も明日からチーフって気軽に呼べないっすよ。どんな顔で、あの人と会えば」
ドン引きする本木を慰めるかのように、馬原が話を締める。
「だから当時を知るメンツで、ホモの助っつー冠名をつけてやったんだ。よかったら、お前らも使ってみろ。そんだけで牽制になるってもんよ」
「誰にでも、そうなんですか?」とは宇佐美の質問に「誰にでもって?」と霧島が返す。
「ですから、その、被害に遭ったのはAさんだからなのか、それでも誰にでもやるのかっていう」
「年間通して悲劇があったのは、Aくんだけだぬ」と、笹川が答えた。
「Aくんが好みのタイプだったんじゃね?気になるなら、ホモの助本人に聞いてみそ」
笹川の答えに「だっ、駄目だよ、危ないよ!」と泡を食ったのは伊藤だ。
「え?でもチーフの好みがAさんだけだってんなら」と言いかける本木をも遮る勢いで言い切った。
「Aくんもウサミッチみたいに大人しくて可愛い人だったんだから!」
これには全員が「え?可愛い?」と、まじまじ宇佐美を見つめてきて、本人は居心地が悪いったらない。
「えー、キョウジが、可愛い……すか?いや、まぁ、おとなしいってのは判りますけど」
本木なんかは思いっきり首を傾げている。
自分が可愛くないという点においては、宇佐美も全く同感だ。
だが思い返すに、本木が言っていた初出社の日、横山は宇佐美を見て大人しいねぇとニヤついていたではないか。
その後での牽制だ。三宅が前科を持ち出したのは。
他の先輩諸氏はポカンとしていた。
今の制作部では彼女だけが知っているのだ、五年前の悲劇を。
三宅に訊けば横山の詳しい好みも解ろうが、上司の詮索をする人間みたいに思われても厄介だ。
ホモの助、か。もし万が一、飲み会で迫られたら、その名前で呼んでやれば横山も思いとどまってくれるだろう。
伊藤の反対隣を見ると、本木と目が合った。
本木も無言でウン!と頷き、次の制作部飲み会での自己防衛本能を固めたらしい。
「あーっ、言われてみれば似てるねぇ!引っ込み思案で大人しいとこが特に」
「つか、そこしか似てねーだろうがよ。あっちのほうがイケメンだったし」
じっと宇佐美を見つめて新発見だというように騒ぐ霧島へ、馬原も遠慮のない下馬評をかます。
酒の勢いということにしておこう。
「顔は関係ないよ、全体の雰囲気が似てるって言ったの」と霧島も言い返し、宇佐美と目が合うやニッと笑いかけた。
「今日はイイコト知っちゃったね!これでオヤジ上司の飲み会セクハラ対策はバッチリだぁっ」
オヤジというほど歳が離れていないようにも思うが、霧島の言いたいことは、よく判る。
興味本位で上司の黒歴史を暴いてしまい、気まずくなった新人への気遣いだ。
「さ、気分治しに色々頼も!二人とも、好きなの選んで?今日は私達のオゴリだから!」
「ホントっすか!?よーし、好きなのいっぱい食っちゃおっと」
本当に遠慮のない品数を頼む本木を中心に、ハロウィンと全く無関係な飲み会は盛り上がったのであった。
その帰り道で。
「あ……その、あの時は本当に、ごめんね」
ぽつんと謝ってきた伊藤を見やり、宇佐美は慰める。
「いいス。もう、終わったことですし」
「で、でも!今日の話で、ぶり返しちゃったんじゃないの!?当時の気持ち悪さが」
うろたえる伊藤は涙目だ。
自分でも思い出して、あの時の自分自身に嫌悪感がぶり返したのであろう。
「気持ち悪くなかったスよ。あの時も、言いましたけど」
あの時――
キスしてきたのが横山などの心を許していない相手であれば、気持ち悪いと思ったのかもしれない。
伊藤は知らない間柄ではない。
少なくともチーフよりは恩を感じているし、多少の好意を持ち得ていた。
だからこそ、気持ち悪くなかったのだ。そう考えることも出来る、今なら。
Aくんと自分は似た者同士かもしれないが、状況も相手も、まるで違う。
だが何をどう答えても、伊藤は自分自身が許せないようだ。
どうやれば、彼を安心させてやれるのだろうか。
ふと、手提げ袋に入ったカボチャのぬいぐるみに目がいく。
ハロウィンだからと霧島が押しつけてきた、UFOキャッチャーの景品だ。
「伊藤さん」
ぽつりと呟いた宇佐美に、伊藤が「何っ!?」と高速反応する。
「Trick or Treat……ッス。かぼちゃと俺、どっちがいいスか」
ぬいぐるみを顔に押し付けられて、戸惑いながらも「え、えぇと、ウサミッチがいいかな」と伊藤は答える。
すると、ぬいぐるみが視界から消えたと思う暇もなく宇佐美の顔が近づいてきて、伊藤の唇を塞いだ。
「っっっっ!!!!?」
……のも、ほんの一瞬で。すぐ離れた宇佐美が、照れくさそうに視線を外す。
「ハッピーハロウィン……なんて。不意討ち返し、すいません」
予想だにしなかったサプライズに、しばしポカンと呆けていた伊藤にも、次第に時が戻ってきて。
「さ……最高だよ!最高だったよ!ハッピーハロウィン最高ーーーっ!」
深夜の歩道で、伊藤の叫びが木霊した。