ある薬師の物語

21周年記念企画:たとえば、こんな海水浴


シェンフェンとユェンシゥンの海水浴

カ・ター・クリコに本来、海はない。
水場がないのではなく、水場で泳いだり魚を釣るといった概念がない。
だから水場で遊んでいる者がいようものなら、衛士が血相を変えて追い払った。
その水場に"泳ぐ"という概念が、ある日、唐突に付け加えられた。
水場に「海」という名の「役割」を与える。
誰もが思ってもみない真似をしたのは、現在の冠士チィンダィンであった。

「さぁ、衛士ユェンシゥン。好きなだけ海で泳ぎ、砂浜で遊び、無防備に美しい背中を曝け出しておくれハァハァ。たぁっぷり油を塗り込んでやるからなグフフ」
もはや一ミリも欲望を隠そうとしない冠士に、衛士の隊長リィンラァンが「おやめ下さい、チィンダィン様!そうまでして月シリーズを無に還したいのでございますか!?」と必死にすがりついているが、ユェンシゥンの知ったことではない。
そう、三段腹の醜悪親父に構っている暇など、彼にはなかった。
「ユェンシゥーン!スイカだよ!スイカを割ろう!スイカは一個、スイスイゼルで大安売りしとくよー!」
でっかい瓜を抱えてヨーヨーセンが走り寄ってくる側から、シェンフェンとハェンラェンには「砂場にも役割が与えらたんだって!一緒に砂のおうちを作ろう、ユェンシゥン」と誘われるわ、ニィカフェカにまで「いや、まずは遠泳だ。海の向こうに何があるかを調べよう」と促されるわで身動きが取れない。
ヨーヨーセンと薬師の二人はともかく、ニィカフェカは直接の知人ではないはずなのに、何故、当然のように友人ヅラしているのかは気になるところだが、それはさておき、どの誘いも魅力的だ。
なんせ水場や砂場は、それまであるがままの存在で、そこで何かをする自体が禁じられていた。
場所に役割を与える――これまでにない発想だ。
今の冠士に感謝せねばなるまい。
脳内で簡潔に感謝を述べると、ユェンシゥンは薬師を見下ろした。
「砂の家を作るとするか」
「わぁーい、やったー!」と両手を掲げて喜ぶ二人は、まるっきりお子様だ。
「ぶぅー、衛士サンは薬師贔屓なんだからー。あとでスイカ割り、覚えといてよねー」
瓜を抱えてヨーヨーセンは歩き去り、ニィカフェカは砂場を眺めてから空をも見上げ、「ここにいると干上がってしまいそうだ。僕は海で泳いでくるよ」と言い残し、こちらも去っていく。
砂で家を作るには、どうすればいいのか。
ハェンラェンが言うには商人考案の遊びで、水で砂を固めて形作るのだという。
まずは大きく砂を盛り上げて、その後は穴を掘って入口を作る。
家と呼ぶには簡素な造形だが、シェンフェンは満足そうに溜息をついた。
「よーし、完成!僕らが、もうちょっと小さかったら、この中にだって入れるぞ」
「なら、もうちょっと大きく作ればよかったね」と、ハェンラェン。
シェンフェンは「いや、これ以上大きく作るのは大変だよ」と難色を示し、ユェンシゥンを見上げる。
「衛士の皆に頼めば作れそうだけど……」
ユェンシゥン以外の衛士も、海に来ていることは来ている。
ユェンシゥンだけを呼びつける企みが叶わなかった、冠士の細やかな腹いせで。
ただ、衛士の殆どが制服のまま海へ飛び込んでいき、バシャバシャと楽しそうに泳いでいる。
砂で家を作っているのなど、ユェンシゥンぐらいなものだ。
泳ぐ皆を遠目に眺めて、ハェンラェンがポツリと呟く。
「お……泳ぐのって、楽しいのかな……」
薬師のローブは普段でも動きにくい服装だから、水場に入ったら沈んでしまうかもしれない。
ローブを脱げば泳げないこともなかろうが、大勢の目がある場所で素っ裸を勧めるのは、さすがに躊躇われた。
「ハェンラェン、一人で泳ぐのは危険だ。俺が補助に回ろう」
ユェンシゥンが申し出た途端、ハェンラェンはパァァーッと顔を輝かせて、海へ走っていく。
「お願いね!絶対離さないでね、ウチのお月様!」
「その、お月様って何なの?」と、これは追いかけてきたシェンフェンの問いに「キラキラしているから、お月様だよ」と答えたような、そうでもないような返事をして、ハェンラェンは大人しくユェンシゥンに抱きかかえられる。
ぱちゃぱちゃと水に親しみながら二往復したあたりで、すっかり満足したのか終了を告げてきた。
「もういいよ、ありがとうウチのお月様。次はシェンフェンにも、やってあげて」
「う、うぇぇっ、僕!?僕は、別に……」
全く泳ぐ気がなかったのであろう、シェンフェンは目玉が転げ落ちそうなぐらい驚いている。
だが、じっと見つめるユェンシゥンの視線に気づいたか、こうも付け足した。
「ぼ、僕は一人で泳げるからね。そうだユェンシゥン、僕と一緒に遠泳しよう。ニィカフェカも言っていただろ?海へきたら遠泳しなきゃって」
なおも、じっと視線を注ぎながらユェンシゥンが言い返す。
「遠泳するのは構わんが、シェンフェンは本当に泳げるのか?泳げないのに見栄を張るのは危険だし、周りも心配する」
そう言った後、ぼそっと彼にだけ聞こえる音量で言い添えた。
「……勿論、俺もな」
たったそれだけでシェンフェンはグゥの音も出なくなり、降参する。
「ご、ごめん。本当は泳ぐの、今日が初めてなんだ……」
「そりゃそうだろ。全員、今日が初めてだ」とユェンシゥンは言うが、なら何故、衛士は皆、気持ちよさそうに泳いでいるのだろうか。
シェンフェンの視線を辿り、ユェンシゥンも言い直す。
「俺達は、どんな環境でも即適応できる。役割が、そうさせるんだ。衛士以外が初めてで泳ごうとすると、あれと同じ末路を辿る」
指で示された方向を見てみれば、ニィカフェカがブクブクと沈んでは浮かび上がるのを繰り返していた。
「ニ、ニィカフェカが溺れている!?」と驚くシェンフェンへ首を振り、「泳げないと判ったから、今はああやって遊んでいるんだ」とも訂正して、戸惑うシェンフェンを手招きで呼び寄せると、ユェンシゥンは微笑んだ。
「俺の背中に乗るといい。抱き抱えられるよりは、景色もよく見えるだろうさ」
「え、い、いいの!?」と何度も確認を取られながら、小さな薬師を背に乗せて泳ぎだした。

ユェンシゥンの背中に乗って眺め回した海は、どの角度を見ても青く輝き、果てしない。
「はぁぁー……海って広いね、どこまで続いているんだろう」
ぽつりと呟いた独り言にも、ユェンシゥンは無視したりせず応えてくれる。
「果てまで辿り着いた者は、いないらしい。これまでは泳いで渡るといった考えがなかったからな」
彼が手で水をかくたびに、すいすいと進んでいく。
乗っている側としては気持ちいいのだが、彼にばかり労力を使わせているのは申し訳なくもあり。
「ね、ユェンシゥン。疲れたら、いつでも言ってね?浜辺に戻って瓜を食べよう」と労ってくる少年をチラリと見上げ、ユェンシゥンが毒づく。
「ヨーヨーセンに高い金を払って、か?だったら冠士を利用して、飲み物をせしめてやろうぜ」
ちょっとした冗談だというのに、即座に顔色をなくしてシェンフェンは喚きたててきた。
「か、冠士は、じゃなかった、冠士様は駄目だよ!何を要求されるか判らないじゃないか」
よっぽど幽閉の一件で、冠士への信頼が地に落ちていると見える。
こちらは冠士の弱みを握っているのだし、奴とて、もう二度と無茶振りしてこないと思うのだが。
だが、まぁ、シェンフェンの機嫌を損ねるのもユェンシゥンの真意ではない。
冠士の話題は封印だ。あれに関するバカ話を振るなら、相手はヨーヨーセンのほうがいい。
しばらく無言で泳ぎ続けるうちに、ふと気がついた。
背中から、小さな寝息が聞こえてくる。
無言の水泳に退屈したか、それとも心地よい風に眠りを誘われたのか、シェンフェンは、ぐっすり夢の中だ。
ユェンシゥンは進路を浜辺へ戻し、背中の荷物を落とさないよう静かに泳ぎきる。
浜辺へ寝かせてやっても、少年の起きる気配はない。
あどけない寝顔だ。半開きの口元が愛らしい。
薬師が家から出ない鉄則を強いられているのは、あまりの可愛さに血迷ってしまう輩が出るからではないかとユェンシゥンは考えた。
もっとも、血迷っているのは自分もだ。
彼がお隣へ引っ越してきた時から、その存在が、声が顔が、全てが気になって仕方ない。
「――シェンフェン。ずっと俺の隣にいろよ」
柔らかい髪の毛を撫でながら、そっと口づけた途端、シェンフェンがパチリと目を覚ます。
「え、えぇ、っと、その。ユ、ユェンシゥン。今、何を?」
「キスした」
さらっと答えてから、少しばかり睨みつけてやる。
「……いつ、起きた?今ではなかろう」
「う、うぅ、えと、その……頭を撫でられた時。ご、ごめん」と馬鹿正直に答える相手に、ふっと顔が緩んでしまう。
「いいんだ、謝らなくても。ただ、次からは返してくれると嬉しい」
「か、返すって何を?」と、とぼけたことを言う少年に再び唇を重ねて、ユェンシゥンは笑った。
「キスにはキスで返してくれってことさ。簡単だろ?」
「か……」と言ったまま軽く固まったシェンフェンは、先に歩き出したユェンシゥンの背中が遠のいた辺りで硬直が解けて、大声で喚いたのであった。
「簡単なわけ、ないだろーっ!?」


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