バレンタインデー〜神族〜
今日も神界は穏やかな気候に包まれている。木陰の下、アスペルに呼び出されたアミュは小首を傾げた。
「はぁ。ばれんたいん、ですか?」
そういえばフィーネも似たようなことを今朝、騒いでいましたっけ。
大天使様へお渡しする『ばれんたいんのちょこ』が足りないから、叔母様から少し頂いてくるって。
アミュは興味がなかったし、それよりは剣術の修行でもしていたほうが楽しいので、さらりと無視した。
だがアスペルが相手では、さらりと無視することも出来なさそうで。
なにしろ、この兄弟子は口うるさい。
説教はくどく、長丁場になることもザラだ。
生真面目すぎるのである。
姉のフィーネに輪をかけて、真面目だった。
おまけに大天使様が定めたことで、アスペルはアミュの許嫁にもあたる。
まぁ、これもアミュは興味がないので、今の歳になるまで、さらりと無視し続けていたのだが。
「俺の立場も考えてくれよ」と彼は言う。
何故か拳を固めて力説しながら。
「俺だけだぞ?許嫁もいるのに毎年さらっと存在ごと無視されている男なんてのは」
そうなのである。
許嫁のいないカインや独り身のゲシュタルト、果てはデブッチョのパミィまでもが。
必ず、誰か最低でも一人からは、チョコレートを貰っているというのに。
美しいアミュという許嫁のいるアスペルだけが、毎年貰えていないという有様であった。
許嫁がいる。
それは幸運でもあり、不幸でもあり。
許嫁がいるから、あげなくてもいいや――
他の女性には、そう考えられてしまうのだった。
「俺の顔を立てると考えて、義理でも何でもいいから今年はくれよ?約束だぞ」
一方的に約束を取り付けると、兄弟子は意気揚々と帰っていった。
遠ざかる背中を見て、ハァ、とアミュは溜息をつく。
「ちょこれーと、ですか……仕方ないですね、後でフィーネにでも尋ねてみましょう」
大天使様への分も、出来た。
あとは、その辺の下級兵士達に義理を配れば完璧ね。
何事も完璧さを求める女。それがフィーネの、影でつけられた称号であり。
山と積まれたチョコレートを眺め、彼女は満足で嘆息する。
そこへ、のんびりアミュが戻ってきた。
「フィーネ、少しお聞きしたいことが」
相変わらず、我が妹ながら色気もそっけもない。
今日ぐらいは、おめかしでもすればいいのに。腰に刺さっているのは、今日も剣。
元は悪くないのに、どうしてこうも恋愛とは無関係に育ってしまったのか。
「フィーネ?いいでしょうか」
もう一度尋ねてくる妹へ向き直ると、フィーネも尋ね返した。
「何でしょうか、アミュ?」
次の瞬間には我が耳を疑いたくなるような一言が、アミュの口から飛び出して。
「あの……カインへ、チョコレートをお渡ししたいと思っているのですが」
「おめでとう、アミュ!あなたにも、とうとう、この日がやってきたのですね」
だが祝してすぐに、フィーネは違和感に気づいた。
「……カイン?渡したい相手は、カインなのですか?」
「は、はい」
「アスペルでは、なくて?」
アスペルがアミュの許嫁であることは、フィーネも周知の事実であり。
神界に住む者ならば、誰もが知っていた。
それに――カインは、駄目だ。
だって、カインはフィーネにとっても本命中の本命なのだから。
念を押され、あっとなってアミュは言い直す。
「そうでした、頼まれたのはアスペルに――でした」
「そうでしょう」
「でも、私の好きな人はカインなので」
ポッと頬を染め呟きかける妹を制し、フィーネはドンブリと茶色い粉を彼女に押しつけた。
「私の余りで申し訳ないのですが、これでお作りなさい。アスペルの分を。一人分しかありませんから、アスペルに渡す分だけを作るのですよ」
アスペルアスペル、としつこいぐらいに彼の名前を連呼しながら。
「フィーネ、なんだか不機嫌そうでしたね……どうしてでしょう」
しょんぼりと項垂れ、ドンブリと茶色い粉を手に、アミュは歩いていき。
「私、またフィーネを怒らせてしまったのでしょうか……」
悲しくなりながらドンブリで水をすくい、茶色い粉を中へ入れる。
作り方は、出がけにフィーネから教えて貰った。
だから、何ら問題はないはずなのに。
ドンヨリとした、この気分は一体なんなんだろう。
ネトネトと粉をかき混ぜているうちに、はっと脳裏で閃くものがある。
「――そうだ!この『ちょこれーと』はフィーネに差し上げましょう」
だが同時にアスペルの恨めしそうな顔も思い浮かび、彼女は激しく悩んでしまう。
「あぁ、でも、アスペル……あげないと恨まれそうです。どうしましょう……」
――そして。
アミュが取った、決断とは――
机の上に置かれたもの。
アスペルとフィーネは、それを凝視して小一時間。
しばらくの間、固まってしまった。
「………………」
目の前のアミュは自信満々、満面の笑みで立っている。
「さぁ、食べてください、二人とも」
「いえ、その……アミュ。一つ聞いてもいいですか?」
口元をハンカチで押さえ、フィーネが尋ねるのへ。
アミュは小首を傾げて、応答する。
「なんでしょう?」
「これは…………その、チョコレートのつもり、なのですか?」
姉は見るのも嫌そうに、うっと呻き、机の上の物体を指さす。
机の上の物体。
そう。
フィーネがあげたチョコレートの原料とは激しく異なる色をなしていて。
泥。
はっきり言ってしまうと、そんな色であり。
とても口に入れたくは、ない。
対して妹は、なんでもないことのように、さらりと言ってのけた。
「はい。材料が足りませんでしたので、川の底にあった泥を追加して作りました」
ぎゃあぁぁと横でアスペルが悲鳴をあげ、フィーネは頭を抱え込む。
良かった。つくづく、カインへ渡すのを阻止して良かった。
「ではアスペル。これを残さず綺麗に一人で食べて下さいね」
そう言って、フィーネは席を立ち。
「あ、フィーネ。フィーネは食べて下さらないのですか……?」
悲しげな視線を向けるアミュへ、きっぱりと言い放った。
「私は自分の作った分で、おなかがいっぱいなので。それに、これは元々アスペルへ渡す分と言っておいたでしょう。ですから、これは全て、アスペルが頂けば宜しいのです。良かったですね、アスペル」
残したら許さないぞ、と威嚇を込めて彼を睨むと。
フィーネは、そそくさと逃げていった。
「あぅぅ……お義姉様、ひどすぎます……」
涙目で号泣するアスペルは、不意に視線を感じて真横を見て。
期待に満ちた目で見つめる我が許嫁に、戦慄を覚えたのであった――!