ダ・グー外伝 秘境の村~犬神家~
その村は確かに、島根の山奥に存在していた。しかし地図の上には存在しない。そういう村であった。
存在を消した村――村の名は奉犬村。犬を奉ると書いて、ほうけんと読む。
地主の犬神家を囲んだ集落とも呼べる、小さな村だ。
犬神家は大昔より奉犬村の地主であり、村長も勤めていた。
村の者は全てに関し、犬神家の決定に逆らうことなど許されない。
そればかりか他の街へ出かける事さえも、村の掟で禁じられていた。
村の秘密を守る。
ただ、それだけの理由で――
守るべき秘密が何なのかは年若い犬神家の長男、死狼にも判っている。
犬神家に代々伝わるという式神の存在だ。
『おいぬ様』と呼ばれるそれは犬神家の守り神であり、奉犬村をも外の世界から守っているとされている。
だが、彼はそれを嫌っていた。
式神は神じゃない。
守り神でもない。
これがあるばかりに、村人達は自由を奪われている。
村で生まれたが最後、一生を村で過ごさねばならない。詛いと言っても過言ではない。
村の住民、蔵田 剛志も、その一人だ。掟に縛られた村人の一人。
だというのに、彼はずっと外の世界に羨望の眼差しを向けている。
いつか掟を破って外へ飛び出して行ってしまうのではないかという危機感が、死狼の中にあった。
大人しい死狼と違って、剛志は活動的な青年だ。年寄りの多い村で、一人活気を放っている。
今日も家で本を読んでいた死狼に、土産だと言って書物を何冊か持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
真新しい装丁だ。この村の本屋では、新刊が売られていない。
珍しそうに本を眺める死狼へ、剛志が言い付け足す。
「インターネットで買ったんだ。で、そいつを知り合いに送ってもらった」
「お知り合い?でも……」
別の街へ出かけることは、村の掟で禁じられている。
インターネットは開通していたが、通販も原則禁止だ。
第一、この村の住所を書いたところで、郵便物が届かない。
首を傾げる死狼の耳元で、こっそり剛志が教えてくれた。
「通販会社には、ネットで知り合った人の住所宛に送ってもらってさ。で、その人に教えたんだよ、鎮守の森の場所を。ご神木の足下に荷物を運んでもらっている」
「鎮守の森の場所を、余所者に教えたんですか!?」
厳密には村の住所ではないから、掟を破ったとはいえない。
他の街へ行くことは許されずとも、近辺の森や川へ出かけるのまでは禁じられていない。
鎮守の森――
厳密には、その名前のつく森も地図上には存在しない。
奉犬村の住民が村を取り囲む森を勝手に、そう呼んでいるだけだ。
「そうだよ」と剛志は胸を張り、小さくぼやいた。
「厳しい掟の抜け穴さ。こうでもしなきゃ俺達は、どんどん世界から隔離されていっちまう」
「隔離されたとしても、問題ないのではありませんか?」と死狼も聞き返す。
「僕達は、この村を出ることが出来ないのですから……」
「そんな掟は、くそくらえだ!」と、思わず怒鳴り返してから。
ハッとなった剛志は周囲を見渡して誰もいないのを確認すると、ホッと溜息をついた。
「……なぁ、死狼。お前はいいのか?せっかく、この世に生まれてきたのに、何も新しいものを目にしないまま年老いてしまうなんて」
本の表紙を軽く撫でて、死狼が答える。
「仕方ないんです。僕は、長の息子ですから」
「仕方ないで、済まそうとするなよ」
思いがけぬほど強い力で肩を掴まれ、死狼は痛みに顔をしかめる。
「あ、すまん」と多少は力を緩め、剛志が真っ向から死狼を見つめてきた。
「長の息子がなんだ。跡取りだから何だ?そんなもので自分の人生を諦めて、どうするんだ」
強い眼差しに当てられて、死狼は力なく視線を足下に落とす。
「……では、どうしろと?」
どう足掻いても、この村の住民は別の街へは出かけられない。村長の息子とあっては尚更だ。
村を出れば、きっと大騒ぎになる。両親は今の座を追われるかもしれない。
それだけで済めばいいが、それだけでは済まなくなる。
死狼が外の世界へ出る事で、おいぬ様の存在が余所者に知られたとしたら――?
何度もいうが、式神は神とつくけれど神ではない。現代の社会にいてはならないバケモノだ。
不可思議な存在は、社会において異端とされる。
インターネットが普及する今の時代、異端者がどのような末路に遭うかは判りきっている。
物珍しがられ、吊し上げられ、金儲けの捌け口にされ、やがては『存在されては困る』者達の手によって始末される。
村が、地図ばかりか地上からも消滅してしまうかもしれない。
少なくとも、今までのように静かな生活は終わるだろう。村は好奇の目に晒される。
観光客と称して余所者が村を訪れる。
汚染される。
もし、おいぬ様が彼らを襲うような事態になったら?
考えただけでも、ぞっとする。ならば、一生村で骨を埋めた方がマシだ。
「俺と一緒に、この村を出よう」
剛志は言った。
最も死狼が恐れていた一言を、こともなげに。
「無理です。第一、どうやって?」
先も言ったが山や川への行楽は許されているから、村の入り口に見張りが立っている等ということはない。
見張りなど必要なかった。
この村を見張っているのは、おいぬ様だ。やつの意志が、目を光らせている。
過去に村を出て、別の街へ行こうとした者が一人もいなかったわけじゃない。
だが、彼らは二度と戻ってこなかった。
村を出たのではなく、土に還ったのだ。おいぬ様に襲われて、命を落として。
「方法を考えよう」
力強く頷く剛志を見上げ、か細い声で死狼が反対する。
「……嫌です、無茶を言わないで下さい。剛志さん、あなたが死んでしまったら、僕は」
その先を考えるのは、恐ろしかった。
おいぬ様を使役するのは父だ。
犬神家当主を務め、村長でもある父が、自分と剛志を殺す為に、おいぬ様をけしかけてくる。
おいぬ様が人を殺すのを、子供の頃に見た記憶がある。
たった一度きりであったが、幼い死狼の心にトラウマを植えつけるほど鮮烈な現場であった。
処刑されたのは、村の掟をやぶった若い男女だ。
「おいぬ様、でませぃ。かの二人を喰い殺せ」
父のかけ声と共に、黒い霧が小箱から飛び出し、狼の形を取って彼らに襲いかかる。
狼の牙が男の喉笛を食い破り、女の首を噛みちぎるのを、この目で見た。
あの女性のように、剛志の首が飛んでしまったら。きっと僕は生きていけない。
死狼は剛志が好きだ。
恐らくは肉親よりも、ずっと。
両親は厳格で近寄りがたい処があったが、剛志は最初から死狼に好意的で、且つ労りで接してきた。
村長の息子にしては死狼が虚弱で病気がちだったせいも、あるのかもしれない。
死狼は少し走っただけでも酷く咳き込み、外で遊ぶより本を読んで過ごすのを好んだ。
本の世界では自由だ。飛んだり跳ねたりも、妄想の中では思いのままに出来る。
そんな彼の元に、八歳年上の剛志少年が来て、一緒に遊ぶようになった。
蔵田家は犬神家と古い交流のある家系であった。
血のつながりこそないものの、親族同様のつきあいである。
祖母に連れられ、犬神家の門をまたいだ剛志は、一目見て死狼を気に入ってしまったそうだ。
自分の何処が気に入ったのか?
何度尋ねても、剛志は笑って「人柄だよ」としか教えてくれなかったのだが。
死狼が本好きと判り、剛志は自分の本を貸してくれるようになった。
今まで読んできた堅苦しい純文学とは異なり、軽快で想像の余地を越えた冒険譚に、すっかり死狼は虜となった。
剛志曰く、これらの本は外の世界で入手できるらしい。
正確には、嫁入りした剛志の母が持ってきたものだった。
剛志は、いつか外の世界を見るのが夢だという。母の生まれた街へも行ってみたいのだと言った。
死狼もまた、外の世界へ想いを馳せた。空想する時間が、二人にとって幸せなひとときだった。
――あの二人が、目の前で処刑されるまでは。
「大丈夫だ」
何が大丈夫なのか、自信満々に剛志が言う。
「必ず抜け穴を見つけてみせる。外の街へ行けば、ここよりずっとマシな医療も受けられる。お前の体だって、もっと丈夫になるはずだ」
もうすぐ十七歳の誕生日を迎えようというのに、死狼は病弱なままだった。
剛志は、村の治療が良くないのだと考えているようであった。
死狼と違って、剛志は健康体だ。体力も腕力もある子供だった。
家にいるより外で遊んでいる方が好きだろうに、彼はわざわざ死狼につきあって空想の世界で遊んでくれた。
いい人である。人柄と言うなら、剛志のほうが余程いい男だ。
家から出られない死狼にとって、唯一の友達でもある。いや、親友、それ以上の存在だ。
だからこそ、彼には死んで欲しくない。
「僕の健康は気になさらないでください。確かに体は弱いかもしれません、けれど寝たきりではないのですから」
言いかける死狼の口元を指で押さえて遮ると、剛志がニッと笑いかける。
「いや、早いトコ体力をつけてくれないと、俺が困る」
「どうして?どうして剛志さんが困るんです」
死狼の細い体を抱き寄せ、剛志は耳元で囁いた。
「いい加減、欲求を抑えきれないんでな。激しく扱って、お前が壊れてしまったら困るじゃないか」
「激しく――?」
さらに困惑する死狼の唇を、剛志の唇が塞いでくる。
ばさり、と新刊が足下に落ちた。
「……判っているんだろ?俺の気持ち。早く添い遂げさせてくれよな」
抱擁から解放された後も、どこか遠くで剛志の声が聞こえてくるような気がした。
彼の中の自分が親友ではなかった事実に、ほんの少しだけ死狼は胸の痛みを覚えた。