act2

僕は、生まれてこのかた、誰かを好きになったことなんてない。
屑に好かれて嬉しい人など、この世にいるとは思えなかったからだ。
僕が好きになったら、きっと相手は迷惑する。
だから僕はできるだけ他人に干渉しないよう生きてきたし、これからもそうするつもりだった。

彼を見つけた時も、僕は、すぐそうするべきだったのだ。
彼が起きて、僕と目を合わせたりしなければ。


「何か用か?」
彼が最初に発したのは、そんな言葉で。
話しかけられた、というショックで僕はびくりとする。
しどろもどろになって上手く話せない僕を一瞥した後、彼は勢いをつけて立ち上がった。
「ビルに用でもあったのか?」
「ビ、ビル?」
思いがけない言葉に、僕は思わずどもってしまう。
そんな僕を不思議そうに見て、彼は肩を竦めた。
「違ったか。なら、浮浪者が珍しいクチか?言っとくが俺は無一文だぜ。狩っても何も出やしない」
その話ならニュースで聞いたことがある。
浮浪者が集めた、なけなしのお金を狙って、若者達が襲いかかる事件を。
若者達というのは僕より駄目な、働く気のない若者のことだ。
働く気はないくせに、遊ぶ金は欲しい。
だから、他人から奪って遊ぶのだ。
そんな奴らと僕を一緒にされたのがショックだった。
いくら僕が駄目な奴でも、他人から物を奪うほど落ちぶれていない。
それとも僕は、よほど物欲しそうな目でもしていたんだろうか?
「ぼ、僕は、物取りじゃない」
やっと、それだけを言うのが精一杯だったけど、彼はもう一度肩を竦め、軽く頭を下げた。
「そっか、すまん。最近続けて襲われたんで、猜疑心に固まってたようだ」

改めて、僕は彼と向かい合う。
立ち上がった彼は、僕よりも頭一つ分は背が高い。
足が長いおかげで、全体的に、すらっとしている。
筋骨隆々としているわけではないが、僕よりは力がありそうだ。
ぐっと力を入れれば、力こぶぐらいは出来るかもしれない。
タンクトップから見え隠れしている胸元も、短パン一枚で焼いたのかと思えるほど色黒で。
服は当然のように、上も下も汚れてクシャクシャだ。
でも不思議なことに、浮浪者ならではの悪臭が漂ってこない。
髪も脂っこくない。
彼は浮浪者じゃないんだろうか?
でも浮浪者じゃないんなら、どうして、あんな場所で寝ていたんだろう……
「で、最初の話に戻るんだが。俺に、何か用か?」
また急に話しかけられ、僕はびくっと体を震わせる。
「あ え えぇと、その……」
はっきり言ってしまえば、用事など、ない。
ただ、このまま立ち去ってしまうには、少し寂しい気がして。
ここで立ち去ったら、彼とは二度と会えなくなるような気がしたのだ。
彼と友達になりたい。
そんな言葉が、不意に僕の脳裏を横切った。
彼は、僕がそう言ったら、どんな顔をするだろうか?
――いや、駄目だ駄目だ。
落ち着け、僕。
いきなりそんなことを言われても彼だって困るじゃないか。
あぁ。皆は、どうやって友達を増やしているんだろう。
友達になる初めの一歩ぐらいは、幼い頃に勉強しておけばよかった。
今まで他人とのつきあいを拒んできたことを、今日ほど後悔した日はない。
その時だ。
悩む僕の肩に、ポンと手が置かれたのは。
「なんか、事情があるみたいだな。突っ立ってると疲れるだろ、座ろうぜ」
助かった。彼のほうから話を振ってくれて。
子犬のような従順さでついていくと、僕は促されるままにコンクリートの階段へ腰掛けた。

コンクリートの階段は、一日中熱射にさらされているせいで熱々だった。
でも一旦座ってしまった手前、そのまま座っていることにする。
「お前、学生でも会社員でもないだろ。無職か?」
突然切り出され、僕は三度ギクリとなる。
話しかけられるたびにギクギクしていたんじゃ、まるで犯罪者みたいだ。
でも知らない人と話すのは久しぶりなんだから仕方ない。
「そう真剣になるこたないぜ。俺だって似たような状況なんだからよ」
そう言って、彼は、はは、と笑うと頭の後ろに手をやった。
気楽な調子で笑いかけながら、こんなことまで言う。
「だが仕事が見つからないからって浮浪者にだけは、なるなよ。一般区で育った奴には辛すぎる」
ということは、彼は僕が思ったとおり浮浪者だったのか。
きっと、このビルで寝起きしている浮浪者なんだ。
とりあえず、これだけはアピールしておこうと思って、僕は口を開く。
「僕、浮浪者になるつもりはないですよ」
好きで浮浪者になりたがる奴なんて、いないだろうけど。
「そりゃそうだ」
案の定、笑われた。
でも、ちっとも不愉快な笑みじゃない。
どちらかというと彼自身、自嘲しているような自虐的なものを含む笑みだ。
僕は、僕より底辺の人を見つけた喜びと、彼に対するささやかな同情が己の内に芽生えるのを感じた。
だから、聞かなくてもいいようなことを、うっかり聞いてしまった。
「あなたは自分から浮浪者になったんですか?」
聞いた側から僕は自分がとても失礼なことを言ってしまったと気づいて、慌てて口を塞ぐ。
てっきり気を悪くしてしまうかと思ったのに、彼は小さく笑うと頷いた。
「なった、というか元から浮浪者なんだ。スラム街出身の奴らは全員、な」

彼は自分から名乗りをあげ、僕も礼儀として名乗り返す。
彼の名はサダ。どういう字を書くのかも判らないが、幼い頃から皆にそう呼ばれていたんだそうだ。
驚いたことにスラムの住民は、生まれた時から浮浪者となることが定められているらしい。
スラムにある建物の殆どが家としての機能を放棄しており、電気はおろか水道も走っていないのだとか。
まともなものを売る店も皆無で、人々は力のある組織などから食料を買い求めるのだという。
一般区で普通に育ってきた僕には、想像できない荒んだ日常だ。
もし僕が、そんな悪劣な環境に放り出されたとしたら、一日と保たない。
それだけは確信できる。
つくづく一般区に生まれてきたことを、親に感謝しなくてはならなかった。
そんなスラム街の住民であるサダが何故ここにいるのかと僕が尋ねると、逃げてきたんだ、と彼は小さく笑った。
定められた住居から逃げるのは、このブロックの法律では犯罪とされている。
もし彼が正規の方法でゲートを通ってきたんじゃないとすれば、警察に通報するのが庶民の義務というものだ。
一瞬僕の頭の中には教科書の一文が浮かんだが、彼の横顔を見ているうちに消えてしまった。
なんて寂しそうな顔をするんだろう。
きっと、スラムには戻りたくないんだ。
人が人として扱われないスラム。
生まれた時から、浮浪者になることが定められている領土……
僕だって嫌だと思うぐらいだし、そこで生まれ育ってきた彼は辛さが骨身にしみているはずだ。
戻りたくなくて、当たり前だ。
でも。
今までは見つからずに済んでいたけど、ここにだって警察のパトロールが来ないとは限らない。
いつか、そのうち見つかってしまうだろう。
そうしたら、彼はスラムに強制送還されるのでは――?
「お前が気に病む事じゃねぇさ。俺は俺で何とかすらぁ」
おっと、いけない。
僕は僕の考えに浸るあまり、無言になっていたようだ。
彼を心配するつもりが、逆に心配されてしまった。
「あ、あの」
僕は意を決して言ってみることにした。
「ここも住むのに居心地がいいのかもしれないけど、もっと良い場所を知ってますよ」
「へぇ?」
少し興味を惹かれたのか、サダが僕の顔を真っ向から見つめる。
涼しげな目元に捉えられて、僕は思わず視線を外してしまった。
改めていうのも何だけど、彼の顔は格好いい部類に入るんじゃないだろうか。
少し不良めいた男が好きな女の子達になら、人気が出そうな気がする。
「まさか、公園だなんて言うんじゃないだろうな。あそこは駄目だぜ、ノンベのテリトリーだからな」
ノンベ?
ノンベって誰だろう。サダの友達だろうか。
気になったが、とりあえず、そのことは後回しにして僕は言った。
「まさか。ちゃんと屋根のある場所です。アパートなんですけど、老朽化が進んでいて」
「ストップ。宿代が払えるぐらいなら廃屋ビルで寝泊まりなんかしてねぇぜ」
「話は最後まで聞いて下さい」
僕にしては強気で遮ると、続けた。
「老朽化が進んだため打ち壊しが決まったんですけど、例によって資金がなくなり放置されてるんです。あのアパートなら、サダさんもきっと気に入ると思うんですけど……どうですか?」
一息に言い終え僕は多少呼吸困難になりながらも、彼を見上げる。
アパートは、僕の家から歩いて五分とかからない場所にある。
一時は怪しげな一団が出入りしていて問題になったこともあったけど、今はすっかり廃屋と化している。
時々、元大家が見廻りにくるおかげか、警察のパトロールからも外されているような状態だ。
あそこなら、いつでも会える。
少なくとも炎天下、ふらふら歩いて此処まで来るよりは、気楽に。
「アパート、ねぇ……」
すぐ承知するかと思いきや、サダは考え込んでいる。
僕の下心を見透かされたのかと思って、僕はドキドキした。
「庭の水道からは水も出ますよ、ちゃんと。それに、近くにスーパーもありますし……」
前に子供達が遊んでいたのを思い出し、つけくわえる。
水と聞いて、彼の目が輝いたように見えた。
「水も?なら、そっちに移ってみるのも悪かねぇか」

今まで風呂や洗濯はどうしていたのか僕はあえて聞かなかったのだが、サダの自白によると、彼は公園で全てを行っていたらしい。
ただ、公園はノンベのテリトリーなので、水を使うには使用料を請求されていたんだとか。
同じ浮浪者から金を取るなんて酷いなと僕が憤慨すると、サダは、それが社会のルールだと言って笑った。
でも社会のルールといったって、公園はノンベ所有の土地ではない。
軍が用意した皆のための憩いの場、公共地だ。
ノンベを警察に通報してやろうか、なんて考えが一瞬、僕の脳裏をよぎったりもしたのだけど……
サダが頻繁にくちに出す名前だ。
ひょっとしたら、二人は知りあい、いや友達という事も考えられる。
僕は心に浮かんだ邪な計画を打ち払い、サダをアパートへ案内しようと先陣切って歩き出した。

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