さて――第九研究所へ視線を戻してみるとしよう。
猿の印ことルックス・アーティンは未だ捕まっておらず、所内全体が騒然としている。
「ギルギスが王子と接触しました」
監視モニターの置かれた部屋では、オペレーターの声が淡々と響く。
「そうか、王子と虎の印が気づいた様子はないかね?」
トレイダーに聞き返され、オペレーターは首を真横に振る。
「いえ。怪しみながらも一応、ギルギスを信頼し始めている模様。共に王子の部屋を脱出したそうです」
「そうか」
顎へ手をやり、ほんの少しだけトレイダーが微笑む。
「そちらは順調というわけだ」
あとは、こちらの騒動を何とかせねばなるまい。
全モニターへ素早く視線を巡らせるが、小さな猿の姿を見つけることは出来なかった。
さりとて捕まえたという報告も、まだ受けていないから、監視カメラの死角を移動中なのであろう。
「用心深いんだか、深くないんだか判らないね」
小さく苦笑すると、トレイダーが席を立つ。
「どちらへ?」
訪ねてくるオペレーターへ手を振ると、彼は言った。
「猿の印を捕まえる手段を解放してくる。彼は必ず其処へ向かっているはずだからね、先手を打とう」
首を傾げる部下を残し、トレイダーは部屋を出て行った。
監視カメラの目をかいくぐり、ルックスは天井裏を疾走していた。
油断なく周囲の気配へ気を配りながら、脳内で地図を展開する。
リフレクターを目撃した場所を思いだそうとしていた。
きっと、あの中には囚われの十二真獣がいると確信している。
研究所に入り込んだ際、何度か耳にした情報だ。
十二真獣のうちの二人、兎と馬を監禁してあると。
走りながら考える小さな猿の足が不意に止まる。
排水管の隙間から下を覗き込んだ。
話し声が聞こえたような気がしたのだ。
「潜り込んだはいいけど、これからどうすんのよ?」
小さな少女、いや幼女だろうか?
フリフリのレースにヒラヒラのスカート、研究所という場所には似つかわしくない格好をしている。
彼女が口を尖らせて怒っている相手は壁際に身を潜め、手元の地図へ視線を落としていた。
物憂げな表情で、眉根を寄せて考え込んでいる。
ひと目見てルックスが男から感じた印象は誠実、その一言であった。
真面目そうだが反面、暗そうでもある男だ。
「建物の造りは財団のものと同じですわねぇ」
横から覗き込んでいる女が呟く。黒髪に黒服と黒づくめの女だ。
財団とはキングアームズ財団だろうか?それの内部を知っている、この女は何者なのか。
なおもルックスが覗いていると、男が音もなく立ち上がった。
「……構造から考えれば、二人の居る場所は奥の部屋だと想定される」
男の勘に幼女がケチをつけてくる。
「そう?そんな安直な場所に、あのトレイダーが隠すかなぁ」
黒服の女は男に同意のようで、幼女を無視して男へ語りかけた。
「ここからはMS化して行動したほうが良さそうですわねぇ。ご覧なさぁい?」
女が指さしているのは監視カメラだ。
明後日の方向を映している。
彼らがカメラの死角にいるといったほうが正しいか。
不機嫌な目で女を見つめ、男がボソボソと呟く。
「……カメラには気づいていた。だが」
「だがもヘチマもないでしょ、ミワの言うとおりじゃん」
幼女がくちにした名前に、ルックスはハッとなる。
ミワ、ミワ。どこかで聞いた覚えのあるような?
「あたし達の顔は向こうに割れてんだしさぁ」
幼女に押し切られ、男は渋々四つんばいになる。
ぶるりと全身を震わせたかと思うと、瞬く間に手が、足が、茶色い体毛で覆われてゆく。
傍らの幼女は兎に、黒づくめの女は蛇へと変化する。
彼女の姿を目に留めた瞬間、ルックスは閃いた。
――あの女は巳の印、十二真獣ではないのか?
無論、蛇に変化するMSが他にいないとは限らない。
だが財団を知っていて且つパーフェクト・ピースと敵対している蛇のMSなど、そうそういるだろうか。
もう少し、様子を探る必要がある。
彼らの移動に併せ、ルックスもまた、天井裏づたいに行動を再開した。
ゼノとシェイミー、そしてウィンキーが囚われているのは幾重にも張り巡らされたトラップの先、廊下の突き当たりにある部屋であった。
トラップの直前でトレイダーは立ち止まる。
懐から取り出したカードを掲げると、小さな電子音が鳴った。
『本人認証確認シマシタ』
どこからともなく機械じみた声が聞こえ、再びトレイダーは歩き出す。
奥の戸へ手をかけ、軽く引っ張った。
「ごきげんよう。具合は如何かね?」
中へ声をかけると、ハッとなって振り向いたのがゼノ。
やや遅れてシェイミーも反応し、床で伸びていたウィンキーが目だけをあげる。
目には見えぬ幕を通して、なおもトレイダーは語りかけた。
「諸君等に吉報だ。ここを出るチャンスを与えよう」
間髪入れず、ウィンキーの憎まれ口が返ってくる。
「どうせ条件付やろ?何やらせようってんねん」
「察しが良いね、その通りだ」
口元に笑みをたたえ、トレイダーは頷いた。
「君達に捕まえてもらいたい人物がいる。MSだ、名前はルックス・アーティン」
聞き覚えのない名前にシェイミーとウィンキーは首を傾げ、ゼノは黙って聞いている。
しかし続けて聞かされたトレイダーの言葉には、誰もがハッとなって互いを見渡した。
「君達には、十二真獣・猿の印……といったほうが、判りやすいだろうか?」
ウィンキーが大声で叫ぶ。
「猿の印やて!?見つかったんかぃ、猿の印!」
「どうして、十二真獣がこんな処に?」
シェイミーの問いには、かぶりを振り、トレイダーは要求を続ける。
「それは我々にも判らない。単独で我々を潰しに来たのかもしれん。そこで君達のうち一人が、捕獲に当たって欲しい」
「捕獲してどないすんねん?オレらと同じように監禁するつもりかいな」
ウィンキーの問いを無視し、トレイダーは自分の話を一旦締めた。
「猿の印を捕獲したら、君達のうち一人だけを解放してやろう。悪い話ではないと思うが?」
「一人、一人って!全員で捕獲に向かったらアカンのかいや!?」
「それに解放も一人って……全員解放してくれるんじゃないの?」
ほぼ同時にハモった二人を見比べ、トレイダーは肩をすくめてみせる。
「全員で捕獲に向かい、そのまま帰ってこないつもりだったのかね?さすがに、そこまで我々は愚かではないよ。全員を解放するほどにもね」
「ケチー!」とウィンキーの罵倒につられるようにしてシェイミーも「けちぃっ!」と喚く中、ゼノが、のっそりと立ち上がる。
「俺が行こう。解放するのはシェイミーにしてくれ」
「お、おい、勝手に決めんなや!」
ウィンキーの非難をBGMに、トレイダーは頷いた。
「よかろう」
ウィンキーも立ち上がり、ゼノの前方へ回り込む。
「よかろーって、よかァないわ!二人ともオレを無視して何勝手に話を進めとんのやッ」
牛をジロリと眼下に睨みつけ、ゼノはボソリと答えた。
「解放されるのはシェイミーでなくてはならない。そして、捕獲するのは俺が一番適役だ」
途端にピィンと閃いたのか、ウィンキーがひそひそと囁いてくる。
「あ、なるほど……隙を突いてアイツを」
聞こえていたのか、トレイダーが二人の会話を遮った。
「ここを出た途端、おかしな真似をしよう……などとは、思わない方が賢明だ」
口元には余裕の笑みを讃えたまま、ゼノ、そしてウィンキーを順番に一瞥する。
「ゼノ、君がおかしな真似をすればシェイミーとウィンキーの命は保障しない。我々には技術力がある。君達三人を消すのは造作もない事であるというのは忘れないでくれ」
ふれくされたように腰を下ろし、ウィンキーは口を尖らせる。
「なら、なんで今まで消そうとしなかったんや」
それに答えたのは、トレイダーではなくゼノであった。
「人質としての価値があるからだ」
その通り、と再び頷き、トレイダーは廊下の先へ目をやった。
「諸君等を囮にすれば、東の王子と虎の印が助けにくるだろう……そう考えていた。しかし彼らは、君達の救出ではなく東国へ援助を求めに向かってしまった」
「葵野さんと坂井さん?……白き翼じゃなくて?」と、これはシェイミー。
ゼノにしても、その答えは予想外だったようで、軽く首を傾げてトレイダーへ尋ねる。
「俺達のリーダーは実質上、総葦司だ。それは貴様にも判っていると思っていたが。王子を人質に取り、東の国を制圧するつもりか?」
「東の国には興味がない」
ゆっくりと、トレイダーが手を伸ばしてくる。
薄い膜を苦もなく通り抜け、ゼノの目前へ掌を差し出した。
「私の興味をひいているのは虎の印……坂井達吉だけだ」
「坂井が?」
ますます困惑して、眉を潜めるゼノへ彼は言った。
「猿の印捕獲へ向かってくれるというのなら、この手に掴まるといい。君だけを外に出してやろう」
シェイミーを振り返ると、愛しの少年は黙って小さく頷いた。
ゼノも無言で頷き返し、トレイダーの掌を握り返す。
ぐいっと力強く引っ張られたかと思えば、幕の外まで引っ張り出されている自分に気づく。
「一体……どうやって」
あれだけ押しても引っ張っても叩いても無反応だった檻なのに、いとも、あっさりと抜け出せてしまったではないか。
驚愕に両目を見開くゼノに対し、トレイダーはこともなげに答えた。
「なに、外からのコンタクトには応じるように出来ているのさ。それよりも君、ついてきたまえ。どうせなら、トラップも発動させておきたいのでね」
シェイミーとウィンキーが逃げられないように、か。
ここでトレイダーを倒す。
それもゼノの脳裏を掠めたが、万が一残ったシェイミーが何かされても困る。
大人しく、後をついていくことに決めた。
やがて夜も更け、時計の針が真上を指す頃、王宮を抜けだした司と友喜。
そして坂井、葵野、デキシンズの三人は、森の中で合流する。
全身剛毛に包まれた男を紹介され、友喜は胡散臭げな目で彼を見上げた。
「ふぅ〜ん……デキシンズ、なんていうの?あなたのフルネーム」
「フルネームを聞いて、どうするんだい?」
陽気に聞き返してくるデキシンズを睨み付け、重ねて問う。
「やましいことがなければ、答えられるはずだよね。どうなの?教えてくれないの?」
「おい、どうしたんだよ友喜」
珍しく粘着な彼女には坂井も葵野も驚いた。
司は目つきも険しく無言で遣り取りを眺めている。
剛毛男は困ったな、という風に肩をすくめた後、名乗りをあげた。
「ギルギス・デキシンズだ。お嬢ちゃんの名簿に俺の名前は載っていたかい?」
「ふぅーん、ギルギス……ね。聞いたことがないけど」
友喜の呟きに、すかさず坂井が突っ込んでくる。
「何なんだよ!?しつこく聞くから、てっきり知ってんのかと思ったじゃねーかッ」
すると友喜、じろりと坂井を睨み付け、さも不機嫌な調子で呟いた。
「知らないからこそ怪しいんじゃない。キミの話だと風景と同化したり舌を伸ばしたりできるんでしょ?そんな特異な能力を持っているMSなら、もっと有名になっていたっておかしくないのに」
相手も然る者、疑われている張本人は平然としたもので、「世の中には、隠れた逸材ってのもいるってことで」と、しまりのない笑いを浮かべて微笑んだ。
フンと鼻を鳴らして友喜が言う。
「……まぁ、いいわ。そういうことにしといてあげる」
さっさと踵を返し、司を促した。
「それより、これからどうするの?東国の説得に失敗しちゃったけど」
「出る前にも言ったけど、心配はいらない。王族を落とせなくても民衆が僕らの味方になる」
坂井と葵野がハモる。
「民衆が?」
司は頷き、明るい表情を彼方へ向けた。
森を抜けた先には小さな村が点在している。
その中には必ずいるはずだ、司の求める人材が。
「まずは村まで行こう。追っ手が差し向けられていないとは限らない」
四つんばいになって獣に変化しようとした司は、後ろに回ってきたデキシンズの気配へ尋ねる。
「……僕の背中が、どうかしましたか?」
それには答えず司の下半身、特に中心部分を真顔で見つめたまま、彼は真剣に尋ね返してきた。
「白き翼さんよ、あんた……ソコは使っているのかい?」
「そこ?」
質問の意味が判らず首を傾げる司だが、次の瞬間には股の間に生えているモノをズボンの上から握られて、たまらず飛び上がった。
「ひゃあ!!」
「てめッ、何やってやがる!また性懲りもなくッ」
坂井が牙を剥き、友喜もカァッとなって怒鳴りつける。
「ちょっと、司に卑猥なマネしないでよ!」
司本人も耳まで真っ赤になりながら、デキシンズの手を力一杯払いのける。
「ぼ、ぼ、ぼぼっ、僕は、そういうことには興味がないんだッ!!」
「興味がない?」
デキシンズの片眉が跳ね上がる。
「不能なのか?」
「ち、違うっ。興味自体が、ないんだってば!!」
狼狽えまくって言い返すと、司は再び四つんばいになる。
いや、なろうとしてデキシンズを振り返り、じぃっと見つめた後、少し離れた場所まで走って行ってから、そこでMS変化した。
それにしても、いくら不意討ちとはいえ、普段冷静な司が、あそこまで狼狽えるとは珍しい。
滅多に見られない貴重な光景を見てしまったなぁと葵野が考えていると、白い犬には睨まれた。
「何をニヤニヤしているんですかッ。早く僕の背中に乗って下さい、行きますよ!」
なんとなく口調に刺々しさを感じたのは、けして葵野の気のせいではあるまい。
だがしかし、司の言うことにも一理ある。
婆様の追っ手が来ないとも限らないのだし、急ぐ必要はあろう。
友喜を膝に乗せた坂井、それから葵野とデキシンズも乗せると、少々重量オーバーだが仕方ない。
空を飛べるのは司しかいないのだ。
四人を背に乗せ、白い犬は心持ち頼りなさげに飛びたった。