アクア

6.大胡と沙由

ほんのひとときの間だけ、気を失っていたように思う。
目が覚めた時、大胡の側には女性が横たわっていた。
ひゃっとなったものの、よく見てみれば女はまだ息をしている。
胸がかすかに上下に波打っていた。
女性は裸であった。
胸は片手でつかめる程度の大きさか。
恥部には薄く毛が生えている。
まだ若いようにも見えるが、本当は幾つなのだろうか。
若い女性の裸など見るのは初めての大胡には、見当もつかない。
はた、と観察している自分に気づき、大胡は視線をそらす。
己への嫌悪感と、彼女への罪悪感が、大胡の胸に広がっていく。

風邪、引いちまうよ

誰に言うともなく呟きながら上着を脱いで裸にかけた時、女が息を吹き返した。


最初は視点が定まらず沙由はぼうっとしていた。
それもつかの間の事で、気がつけば見知らぬ男が自分の顔を見つめている。
男――というには語弊があるだろうか。
彼はまだ若いように見えた。
少なくとも自分よりは年下だろう。
しかし何故、人間が館の中へ?
気絶する前にシズクが叫んでいた言葉を思い出す。

――人間が侵入したぞ――

彼はそう叫んでいたはずだ。
とすると、目の前の少年が侵入者なのか。
ふと自分の肩にかけられている上着にも気づく。
これは、少年の物か。

ありがとう

名乗るでもなく、驚くでもなく、恥じらうでもなく沙由は呟いた。
これには沙由以上に大胡が驚かされた。
なにしろ裸なのだ。
キャーと叫んで非難されるぐらいは覚悟していたというのに……
ぽかんと呆気にとられる中、沙由が再び口を開く。
注意して聞いていないと聞き取れないぐらいの小声であった。

あなた、誰ですか?

誰、と聞かれて大胡は思わず正直に答えていた。
迂闊だと気づいたのは、名乗りをあげた後であった。

あ……俺、大胡
風見 大胡って言います


ここは敵地だ。
仲間に被害でも及んだら、どうするのだ。
だが、その仲間は、あれからどうしただろうか。
水はすぐに退いたが、泳いでいる時間は結構な長さを感じた。
息が続かず沈んだとして、水を飲んでいたら死んでいるかもしれない。
或いは水の中で、もがいているところを魚人に襲われて……
大胡の思いを打ち切らせたのは、沙由の返事であった。

そう 私は二崎 沙由、っていいます
はじめまして


そう言って弱々しい笑みを浮かべる。
幼い子供が知らない人に挨拶せよと親に言われて、そうするかのような愛想笑いを浮かべていた。
彼女は先ほどからしきりに上着の裾と裾を掴んで併せようとしている。
そこで大胡は、ようやく彼女が恥じらっているんだと思い当たる。
沙由は大胡の気持ちをはばかり、キャーと叫ぶことすらも遠慮していたのだ。
叫べば、きっと大胡は傷ついてしまうだろうから。
だから叫ぶ代わりに上着で隠そうと無駄な努力をしている。
大胡は、できるだけ彼女の裸を見ないように視線をずらしながら尋ねた。

あの、ここ……魚人の家ですよね
なんで、ここにいるんですか?


聞いてから愚問であったと気づく。
魚人にさらわれた人間というのは、彼女に違いない。
大胡は思わず身を乗り出して沙由に近づいていた。

一緒に逃げましょう
俺、あなたを助けに来たんだ


間近に沙由の肌が迫る。
彼女は思った以上に痩せていた。
やせ細っている、というのではない。
元々の体格がスリムなのだろう。
血色がよいのが少し意外であった。
少し距離を置くように後退しながら、沙由は困った顔で彼を見つめた。
なぜ?
何故彼は、逃げ出そうなどと言うのだろう。
沙由は自分から、この屋敷へ来たのだ。
助け出される理由など思いもつかない。
大胡は沙由の知りあいでも親戚でもないのだから、
魚人のところから自分の元へ連れ帰るという理由も違うと思う。
だが、なぜ?と聞いてしまっては、この若者を傷つけてしまうような気がした。
黙っている沙由の肩に大胡が手をかける。

奴らが来る前に、早く!

待って、と沙由が言う前に違う声が大胡を制した。
それは思いのほか、強い口調で。

彼女を どこへ連れて行こうと言うのです
僕達の家族ですよ
あなたに連れ去る権利などない


見ればサザラが立っていた。
息を切らしているのは、ここまで走ってきたからだろう。
もしかしたら沙由を探して、あちこち走り回ったのかもしれない。
水が抜けた今、沙由は自分が風呂場にいるのではないのに気がついた。
ここは廊下だ。
風呂釜ごと、だいぶ流されてしまったらしい。
沙由の近くに座っていた大胡が声を荒げる。

家族だと!?
ハッ、バケモンのくせに!
人間の家族が、お前みたいなバケモンであってたまるかよ!!


その声は、先ほどまでとはうって変わって荒々しい。
はっきりと敵意に満ちていた。
バケモノ。
相手を侮蔑するにもってこいの、なんと禍々しい言葉であろうか。
そして人間は、いとも簡単にこの言葉を相手へと投げつける。
相手が傷ついても、構うことすらしないのだ。
むしろ傷つけるために、この言葉を使う。
相手が傷つくのを見て優越感に浸るのだ。
真横から見ればサザラが青ざめているのも判るはずだ。
それでも大胡の攻撃は止まなかった。

お前ら、沙由さんを取られるのが怖いんだろ!
俺達に対する最後の切り札がなくなっちまうもんなぁ
だがな、人質なんて卑怯な真似する奴らに、俺達がいつまでも屈してると思うなよ!!
地上は俺達、人間のモンだ!
バケモンはバケモンの住みか、海に帰れ!



やめて。
沙由は叫ぼうとしたが、どうしても言葉にならなかった。


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