アクア

3.静かな時間

あの崩壊から十年が過ぎ……
幼かった少女は、いつしか妙齢へと成長を遂げていた。
沙由は今年で二十三歳を迎える。
だが誕生日を祝ってくれる父も母も、すでにこの世の者ではない。
今は異形の者達に囲まれて暮らしている。
父と母が足下に眠る、瓦礫の街で。



天気が良かったので、沙由は久しぶりに表に出てみた。
屋敷の中も居心地がよいといえば良かったのだが、このところ気になることが一つだけあった。
ご厄介になっているこの屋敷の主であるサザラとシズクの兄弟。
その兄、シズクの様子が変だという。
屋敷の住み込み女中の話である。
ここ数年、彼ら魚人を巡る環境の変化は、すさまじいものがあった。

異形の民

そう罵り、石を投げつけてくる者もあった。
頭が平べったい他は、人間とそう大差ない作りであるのに。
噂では武力部隊を作っている者達もいる、という。
魚人は人間に対し何の暴力も振るっていないのに。
ただ見かけが奇妙なだけで瓦礫の街から出ていけ、と言う。

人間とは傲慢だ

シズクが吐き捨てるように呟くのを見るたび、沙由は心が痛む。
なぜなら沙由もまた、人間なのだから……


空は青い。どこまでも澄みきっている。
大地震で電気の配給は止まり、自動車は地上から姿を消した。
自動車だけではない、電車も飛行機も止まった。
地上に残っている施設はすべて活動を停止している。
そのおかげだろうか。
人間が地上での活動を休止しているから。
だから、空はこんなにも綺麗になったのか。
綺麗に……戻ったのか。


人間は……
地上にいない方が いいのかな



自分でくちにした言葉に対し、涙がこみあげてくる。
今は魚人と暮らしているとはいえ、やはり沙由は人間なのだ。
人間を否定するのは、沙由にとっては死刑宣告も同じ事だ。
人間として産まれてきてしまった以上、人間として生きる他はない。
いつかは、彼ら――サザラ達とも別れの時が来るだろう。
そして、それは遠い未来ではないのだ。
人間と魚人の対立が激しくなれば、沙由は屋敷にいられなくなる。
追い出されるかもしれない。
それが怖かった。
だが、泣いてばかりもいられない。
ならば……と沙由は考える。
その、いつか来る別れの時まで一緒に過ごそう。
時間を無駄にするのは嫌だ。
愛する両親を失った時に沙由は知った。
愛する者と一緒にいられる、その時間の大切さを。

屋敷に戻り、長い廊下を抜けた畳の部屋にサザラはいた。
正座し、何か書物を紐解いている。
人間が大昔に書いた書物だ。
サザラは人間の文化に興味を持っている、と前に話してくれた事があった。
魚人の生活には無い物ばかりで珍しい、と言う。
好奇心が旺盛なのだろう。
ただ、サザラ達は外へ出ようとはしなかった。
外気には人間の作り出した排気ガスが、未だ残っているという。
それは魚人の肌を焼き、痛めつけ、締め上げる苦痛を伴わせる猛毒だ。
いつか外が綺麗になったら、とサザラは言う。
二人で一緒に散歩しましょうね、と。

ただいま

おかえりなさい、沙由さん
外の様子はいかがでしたか


うん……あまり、かわってない

地震のあとから?

うん

もう少し、こちらへ

うん

側に寄ってきた彼女をサザラは、しっかりと抱きしめる。
沙由の体は小さく、そして冷たかった。
外は今、彼女の言葉を借りるならば 冬 が来ているのだという。

冬とは沙由を凍えさせてしまう力を持つものなのですね

一つ賢くなった。
それはいいが、このままでは沙由が風邪をひいてしまう。
奥へと声をかけた。

湯の用意を

サザラの腕の中で沙由は目を閉じた。
彼の胸の中は暖かく、眠りに落ちてしまうほどの心地よさを感じさせた。
湯につかるより、ずっとこうして抱かれていたかった。


沙由が屋敷へ入っていくさまを見ていた人間がいた。
みな同じ格好で、背中に銃を抱えている。
沙由は知らないだろうが、最近、巷で噂のゲリラ部隊と呼ばれる過激派の連中である。
彼らはどこで聞きつけたものか、沙由の存在を知っていた。
ついでに、間違った情報も聞きつけていた。

――沙由が魚人の奴隷にされている。

彼らは沙由を救うために、ここまで来たのだ。
そして、魚人をこの地上から撲滅する。それが本来の目的だ。
ゆっくりと、瓦礫に身を隠しながら徐々に屋敷へと近づいていく。
そのうちの幾人かが一気に散開した。
頑丈な扉を押し破るなどと乱暴なことはせず、比較的防壁の薄そうな庭めがけて疾走した。
目標は速やかに、そして確実に成功せねばならない。
彼らは人類の希望を背負った軍隊なのだから。
たとえ、その人数がとるに足らない少数――たったの五人だったとしても。


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